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「私すごい発見しちゃったんだよ。昨日の夜中。唐突に」
有沙は歩きながら人差し指を立て、担任の猿渡先生の真似をするように自らの発見とやらを私に披露し始めた。
3時限目と4時限目の間、朝の気だるさを乗り越え昼休みまでもう一踏ん張りの10分休憩。一日の中で廊下が最も賑やかになる時間帯。私と有沙はいつもこのタイミングでお手洗いに行く。特に理由はないんだけど。なんとなくここで。
考えることは皆同じようで、女子トイレは無駄に混んでいるし廊下では男子達がまるで子供のようにふざけ合っている。
特にエネルギーを持て余したヤンチャな男子達なんかは、チャイムをゴング代わりに教室から飛び出してはシュッシュッと口で言いながらボクシングごっこをしている。中学に入ってからというもの、こういう男子達がガキにしか見えなくなってきた。
教室へと戻る道すがら、隣を歩く有沙の声に相槌を打ちつつそんな男子達の中に彼の姿がないかついチラチラとチェックしてしまう。別にいたらどうってわけでもないんだけど。
「ーーーーてわけなんだけど……ねえ千秋聞いてる?」
有沙が立ち止まって不意に私の顔を覗き込んだため思わずビクッとのけぞってしまった。
「えっ、あっ、うん。聞いてるよ……ええと……なんだっけ」
「はい。先生の話聞いてなかったですね宮田さん」
先生モノマネをまだ続けながら人差し指を私の顔に向けてメッとやる有沙に、私はわざと先生に叱られるヤンチャな生徒のように、エヘヘすみませんと笑い返す。聞いてなかったどころか男子のことを目で追ってたなんて言えない。
「じゃあもう一回説明してあげるんでよく聞いてなさい」
言いながら有沙は再び前を向いて歩き始めた。私も慌てて彼女の背中を追う。
「女子ってのはさ、前からかっこいい男子が歩いてくると思わず見ちゃうし、隣にいる友達なんかにヒソヒソと話しちゃうよね。『わっ、あの人すごいイケメン』『芸能人の〇〇君に似てない?』とか。ね?」
有沙は振り返って同意を求めるようにこちらを見つめる。
私は首を傾げながら。
「うーん……そうかなぁ?」
「そうなの」
どうやら私の意見はあまり必要じゃないみたいだ。有沙は続ける。
「でっ、じゃあ男子はどうかっていうと……奴らは見ないね。どんだけ可愛い女子とすれ違っても見ない。むしろそこに誰もいないかのように通り過ぎるの。でもね、ここが面白いんだけど、あいつらは振り返るの」
「振り返る?」
ちょっと早歩きしてやっと横に並んだ私の言葉に、有沙はニヤッと笑う。そしてまた先生モードに入って得意げに人差し指を立てた。
「そっ。可愛い子とか気になってる女の子とすれ違う時、奴らは一見『はあ?俺全然女子とか興味ねーし』みたいな顔して通り過ぎたあとで、必ずチラッと振り返るのです!いやーエロいね。ムッツリだね。バカだね男子って」
「……はあ?」
廊下中が騒がしいとはいえ大きな声でエロいだのなんだの言ってケタケタと笑う有沙に対して、しっかり思春期してる私は恥ずかしくなって思わずちょっと下を向く。どうもこういう話題は苦手だ。なんでもないように喋る有沙が羨ましいようなそうでもないような。
前から男子が二人歩いてくるのが見える。それを上目でチラッと確認して彼じゃないことに少しホッとする。こんな会話聞かれてたら嫌だ。
有沙もその男子達に気づいたようで、歩きながら私の耳元でイタズラっぽく囁いた。
「では、今から実践してみましょう」
あまり見覚えのない、違うクラスの男子二人がなにやら談笑しながらこちらに近づいてくる。一方の私たちは黙って並び歩く。知りもしない二組の男女の物理的距離が縮まっていく。そして廊下の両端をすれ違う。私は有沙のせいで変に意識してしまい、その瞬間チラッと彼らの横顔を盗み見た。うん。知らない。多分これからもずっと知らなくていい。二人ともそんな顔だった。彼らは流行りのゲームについて話しているようで「だからさ、あいつを狩るにはその武器じゃいくらスキルを上げても……」「いや、ちげーって!あそこはまず卵をだな!」等々熱く語っている。当然、こちらのことはチラリとも見ようとしない。
すれ違ってすぐ有沙が立ち止まった。そして、前を向いたまま先ほどと同じ囁くような声で。
「と、私たちのことなんか眼中にもないような彼らでしたがーーー今このタイミングで振り返ると……!!」
言いながら、つま先を軸にグルンと美しく180度回転して後ろを向く。私もつられて後ろ、つまり今すれ違った男子達の方を見る。すると彼らはなんと------。
「だからー!それ触覚っしょ!?ダメだよ触覚じゃあのボスの寝込みは襲えるけど次の惑星に飛んだ時にインカの黄金で感電しちゃうから!」
「いやいやむしろトロンボーンの方がねーから!あれ連続攻撃できるけど弱すぎてスノーステージのかまくら壊せねえじゃん!」
相変わらずこちらを見ようともせずゲーム談義に花咲かせていた。どころかめちゃくちゃ盛り上がってる。
「……………と、まあ、こういうこともあるけれど。基本的には男子というものは気になる女子のことを振り返ってしまうのです」
「…………」
「……あっ、あいつらはほら。きっとものすっごくムッツリなんだよ。うん。きっとそう。今頃きっと可愛い私たちのことで頭がいっぱいなのに無理して誤魔化してるんだきっと。全く、情けない男子どもめ」
私の無言の視線に耐えられなくなった有沙がもはや小さくなった彼らの背中を指差して恥をなすりつける。ごめんね名も知らない男子たち。
「と、とにかく!男子は気になる女子をこっそり振り返って見ちゃうものなの!気になる女子を!」
「私はあいつらの話してた謎多きゲームのことが今一番気になってるんだけど」
「でね、こっからが重要なんだけど」
有沙は、さっきの赤っ恥も私のボケもなかったことにして続ける。すごいなこいつ。
「この法則を応用すれば、気になる男子と両思いかが確認できちゃうんです!」
「……両思い?」
私は思わず聞き返す。
「そう、やり方は簡単。今仮に好きな相手と廊下ですれ違ったとします。その時さっきみたいにすれ違って一歩二歩三歩と歩いてから、こっそり振り返る。その時、相手も振り返っていて目が合えば=両思い。残念ながら向こうが振り返らずにスタスタと歩いて行ったら=両思いではない。ということです!」
「ふーん……」
「私はこれを、すれ違いの方程式と名付けました!」
「有沙……それはダサいよ」
「なっ……!」
私の辛辣な感想に有沙はずっこけるも、なんとか気を取り直して。
「と、ともかくこの方程式に当てはめることで好きな男子の気持ちを確かめることができるのです!そう、例えばあなたの好きな人でも!」
ドクン。と、心臓が鳴った。
冗談めかしつつも『あなたの』とわざわざ付けたその言葉に、私の想いを見透かすようなそんな意味が込められいるような気がして。
「へぇーそりゃあすごい」
「大地でしょ」
わざと関心のないような棒読みで返す私の声を有沙の言葉が斬った。
「大地だよね。千秋の好きな人」
言いながら距離を詰めた有沙がまた人差し指を立て、私の顔を真正面から見つめてニコッと笑う。
「えっ………と……」
私は、後退りしながら今度こそ本当に先生に叱られる生徒のように言い淀む。
有沙が何かを言おうと口を開いた次の瞬間、校内に鳴り響いたチャイムの音が、コーナーへと追い詰められた私を救った。
四時限目のふわふわとした空気が浮かぶ教室に、英語の平田先生のネイティブな発音が響く。教科書の上ではケンとマイクがおよそ日常的とは思えない日常会話を繰り広げている。
私は机に頬杖をつき、広げた教科書を食い入るように眺め彼らの言葉で頭を満たそうとする。
「やあケン、元気?」「やあ、マイク。とてもいい気分だよ」『大地でしょ』「隣にいるのは君のガールフレンドかい?」『大地だよね』「彼女の名前はミカ。僕の幼なじみさ」「初めましてマイク!」『千秋の好きな人』
あーダメだダメだダメだ。私がどれだけ没入を試みてもケンとマイクとミカの三角関係に有沙が割り込んでくる。
そう、有沙の言う通りだ。私は彼のことが好き。
斎藤大地。同じクラスの男子。私の想い人。そして、有沙の幼なじみ。
淡々とモノクロに過ぎていくだけだった私の毎日は彼に彩られた。ノートを取りながら顔を上げ、黒板を見るフリをして斜め前の彼の綺麗な襟足を盗み見る。どれだけ授業に集中しているフリをしても、隣を向いて男友達と話している彼の、その瞳の影に、鼻筋に、睫毛に、目は奪われてしまう。まるで呪いだ。
そしてこの呪いは私だけの秘密のはずだったのにどうしてか有沙には気づかれていたみたいだ。
つまり、有沙は私が授業中に彼の事をこっそりと見つめていることも、もっと言えば毎日毎日彼の事ばかり考え頭がどうにかなってしまいそうなことも、そのくせ人前ではまるで男子のことなんて眼中にないようかのようにクールに振る舞っていたことも、全部全部全部お見通しだったということだ……んんんあぁぁぁぁぁぁああああああああああ……………………恥ずかしい……死にたい……。
私は両手で顔を覆い悶える。教科書の上のケンの能天気な顔が憎い。私はこんなに苦しんでるのになにその間抜けヅラは。
しかし待て待て早まるな。なにも有沙だって確信があるわけじゃない。なんとなく私の様子で気になってカマをかけてきただけの可能性だってある。さっきはうまく答えられなかったけど私だって肯定したわけじゃない。次聞かれた時に毅然と否定すれば案外それで勘違いだったと思ってくれるかも……。
私はそんな頼りない期待を持ちながら顔を上げ、恐る恐る三列左に座る有沙の様子を盗み見る。
有沙は右手でペンをくるくると回しながら黒板の方を見つめている。色素の薄い綺麗な横顔。いつも通りだ。いつも通りすぎてなにを考えているのかさっぱりわからない。
いつもそうだ。有沙は私よりずっと明るくておしゃべりなのに、その言葉の煙幕の奥にある心が私には見通せない。反対にあまり人と話すことが得意でない私なのに、有沙はそんな私の心は簡単に言い当ててしまう。不思議な子だ。いや、私が分かり易すぎるのか?
と、その時。私の視線に気づいたのか、有沙がふとこちらを向いて目が合ってしまった。慌てて目を逸らそうとするが時すでに遅く、彼女は私に向かってニヤっと笑い。冷やかすように私の斜め前、つまり斎藤大地のいるあたりをペンで指し示した。
どうやら彼女の中で私が斎藤君のことが好きなことは確定してしまっているようだ。ああもう、その通りだよ。くそっ。
私は顔が赤くなりそうなのを隠すように有沙から顔を背け、再び机に広げた教科書に没頭しようとする。
ケンの能天気な顔が目に飛び込んできて少しだけホッとする。
「さっきの休み時間言ってたアレ、試してみなよ。大地に」
お昼休み。いつも通り私の机の上でお弁当を広げて向かい合い、昨日観たドラマの展開がヤバいだの三日後に迫った期末試験の展望がヤバいだのと止め処なく話していた有沙が唐突に切り出したので私は思わず卵焼きを取りこぼした。
「えっ、斎藤君が……なに?」
掴み直した卵焼きを口へと持っていきながら聞き返す。我ながら白々しい。
「だからー。好きなんでしょ?大地のこと」有沙は間髪入れずに言った。
私は下を向いたままもしゃもしゃと卵焼きを咀嚼し、脳みそを高速回転させる。
このままシラを切りたい、白状して楽になりたい、好きな人を他人に知られるのは恥ずかしい、この想いを誰かに共有してほしい、有沙は彼の幼なじみ、有沙は親友……………………。
ゴクン、と存分に小さくなった卵焼きを一気に飲み込む。
「…………いつから気付いてたの?」
悩んだ結果、私は声を潜め呟くようにそう聞いた。
有沙は、そんな私をいかにも可笑しそうに笑いながら、私の声と同じボリュームで質問に答える。
「うーん……多分有沙が大地のこと目で追うようになってすぐかな」
「えっ、そんな、嘘でしょ」
「嘘じゃないよ?すぐわかるよ。いつも見てるから」
私は耳まで赤くなってしまいそうだった。だって私が彼のことを気になり始めたのって一ヶ月、二ヶ月、いやもっと前……?
少なくともこの数ヶ月間、私は彼のことを密かに想っていて、それでいて恋愛に興味のないふりをしていて、その全部を目の前にいる有沙に観察されていたのだ。なんてこと。嗚呼、なんてこと。
ぐぬぬぬぬと恥ずかしさのあまり頭を抱える私の滑稽な姿に有沙は思わず吹き出し。
「あはははは!!だって千秋って超わかりやすいんだもんー!よしよし、可愛いなあお前は本当に」
そう言って俯く私の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「うぅ…………」
私は少し顔を上げて教室内の様子を伺う。
昼休みの喧騒はガヤガヤと大きく。教室の隅の私たちの会話を気にかけているような人はいなかった。ついでに言えば彼も教室内にはいなかった。
「心配しなくても誰にも言ってないし言わないよ。もちろん大地にも」
そんな私の様子を見た有沙が優しい声で言った。私は小さな声で「ありがとうございます……」と呟いて頭を下げた。
「まあでもさ、私が言うのもなんだけど大地はいい奴だよ。私からしたら弟みたいなもんだけど。優しいし、背も高いし、顔も悪くないし、千秋が惚れるのもわかる気がする」
「……うん」
「ついでに言えば、ちょっと泣き虫だったり、焦るとすぐ慌てちゃったり、夢中になると前しか見えてなかったり、大事なことでも忘れちゃったりとかそんなかわいい奴」
「それらはマイナス要素なんじゃ……」
「たしかに……!」
お弁当箱を風呂敷で丁寧に包みながら有沙は朗らかな声で笑う。
まさかこの私が自分の好きな人という題材で友達と恋バナをすることになるなんて。まだ慣れないけど、有沙の口から彼を褒める言葉が出るだけで、嬉しいような恥ずかしいようなくすぐったいような。
「でさ、さっきの話の続きなんだけど。あれ試してみない?」
「アレ?」
「そう、アレ」
有沙はぐいっと顔をこちらに寄せると、また唇の前に人差し指を立て囁いた。
「すれ違いの方程式」
鼻先が触れそうなほどの近さで見る彼女の瞳は水晶のように綺麗で、私は次の言葉を上手く喉から取り出せなかった。
昼休みの有沙との会話が頭の中を何度も回る。
「うーん……でもどうせ振り返ってなんてくれないよ」
「そんなのやってみなきゃわかんないじゃん!大丈夫だよ千秋可愛いもん!」
有沙はそう言って両手でぎゅっと私の手を握った。小さくて可愛らしい手、でも不思議と握られているだけで勇気が湧いてくるようなそんな手だった。
「それにさ」
有沙は握った手に視線を落として続ける。
「片想いだって決めつけて、気持ちも知らないまま終わっていく恋なんて寂しいじゃん」
「有沙……」
私の声に有沙は再び顔をあげてニコッと笑う。「どう?試してみる気になった?」
「……口のとこ、ひじきついてる」
「なっ……!」
…………思い出すたびにクックッと笑ってしまいそうになる。マズいマズい。一人で歩きながらニヤけてるのを誰かに見られたら大変だ。無表情、無表情。と、思えば思うほどまたニヤけてしまいそうになる。非常にマズい。
有沙は本当にもったいない子だ。見た目だけでなくその心までとても綺麗で透き通るような女の子なのに、透き通り過ぎていつもどこか抜けている残念な子。でも彼女のそんなところが私はたまらなく愛おしい。
放課後、下駄箱の混雑が嫌で私はみんなより少し遅れて教室を出た。
試験前ということもあって今日は一緒に帰れるかなと思っていたのに有沙はさっさと部活に行ってしまった。どうやら彼女の所属する演劇部は試験前ギリギリまで練習するみたいだ。
夕暮れに染まる廊下を歩きゆっくり下駄箱へと向かう。
外が賑やかになるのと反対に校舎内はどんどん静かになってやがて私の足音だけがこの寂しい空間を飾る。
こんな時、もしこの廊下で彼と偶然会えたら、なんて妄想が少し頭をよぎり自分のおめでたさに恥ずかしくなり慌てて打ち消す。『すれ違いの方程式』とかいう言葉も一緒によぎったけどそいつも打ち消そう。
ていうか、よく考えたらこれだけ人の溢れている学校で一対一で偶然すれ違うチャンスなんてそうそうないし。ていうかていうか、本当にそんなことになったら気まずいわ。彼と私は別に友達というわけじゃなくて私が一方的に片想いしてるだけで、有沙を介してなら喋ったことはあるけど二人で喋ったことなんてほとんどないわけで、そんな人と一対一ですれ違ったらもやは方程式どうこうじゃなくて話しかけるべきかどうかみたいなそういうレベルの葛藤があっ、教室に英語の教科書忘れたかも!
そう気付いた時にはもう上履きから靴に履き替えたところだった。慌ててカバンの中を見る。やっぱり無い。なんてこった。めんどくさい。試験前だから流石に持って帰らないわけにはいかない。ああああもう有沙が変なこと言うから頭の中がそれで一杯になって気づくのが遅れた。有沙のアホ。
有沙のせいにすることでなんとか己の恥ずかしい妄想のせいではないという方向に自分の心を持っていきながら靴を脱ぎ捨て靴下のまま廊下を早足で歩き教室へと戻る。ちょっと汚いけどまあもう誰に会うこともないだろうし、さっさと教室に行って教科書を取って帰ろう。
なんて思いながら角を曲がった廊下の先に彼がいた。
「……………!」
私は咄嗟に急ブレーキをかける。靴下なのでちょっとシューっと滑った。
彼はちょうど教室から出てきたところだった。さっきはいなかったのにいつの間に。
そして目が合った。心臓が鳴る。慌てて目を伏せる。彼がこちらへ近づいてくる。なんで?ああこっちが下駄箱だからか。上履き履いてくればよかった。彼が近づく。心臓が鳴る。てか私立ち止まってるのおかしい、歩かなきゃ。前へ踏み出さなきゃ。なんで今靴下なんだよ私。てか今何時だ?『すれ違いの方程式』ダサい。彼がちか……ちか……てかクラスメイトなんだし無視するのは変じゃない?なっ、なんか挨拶とかしたほうが……なんて?あっ。
と言う間に彼が私の隣をすれ違った。瞬間、私はほんの少しだけ目を上げて彼の横顔を見た。
あぁ、好きな人だ。私の大好きな人。私の頭の位置くらいにある肩。真っ直ぐ前だけを見つめる切長の瞳、焼けているのに綺麗な肌。間違いなく私の好きな人。斎藤大地。私の好きな人が今、私の隣を風のように過ぎ去っていく。私に一瞥をくれることすらもなく。
彼の瞳に最初から私は映っていなかった。そんなの知ってた。ただ幼馴染の女の子の、その隣にいつもいる女子でしかない。そんなの知ってた。知ってた。
一歩、二歩と、彼が遠ざかっていく。同じ数だけ私も彼から遠ざかる。だって私は教室に用があるので。立ち止まるのはおかしいので。前へ、前へと、踏み出さないと。
三歩目で振り返ってもきっともうそこに彼はいない。解の見えている方程式をわざわざ解いて自分を傷つける必要なんてない。私は瞬間的に込み上げてくる涙を抑えこむようにして四歩目を踏み出そうとする。
『気持ちを知らないまま終わる恋なんて寂しい』
有沙の言葉が頭を巡った。
……そうだ。彼の気持ちを知るのは怖い。でもここで離れてしまうときっと私はこの先もずっとこの距離を縮めることなんて出来ないまま終わるだろう。
右手に有沙の手の感触を思い出す。まるでそこにあるかのように力強く。
きっと振り返ってもそこに彼はいない。それでも構わない。泣くのは、泣くのはそれからでいい!
私は有沙がやったようにつま先を軸にぐるんと美しく180度回転した。
「わっ!」
と言う低い声が廊下に響いた。
斉藤君がこちらを向いて驚いた顔で固まってる。
私も固まった。
「………え?」
思わず声が出てしまった。
えっとこれは……廊下ですれ違って……三歩歩いて振り返ったら……目があって……イコール…………?
頭の中で有沙の声と方程式がぐるぐる回る。つまりこれはその……。
と、次の瞬間。
「えっとあの……さ、さようなら!」
そう言って彼が駆け出して逃げていった。
廊下には何故か急に別れの挨拶を告げられた私だけがぽつねんと残された。
彼の足音がすごい速さで遠ざかっていく。
えっとあの……これってどういう……。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「有沙ー!!待ってー!!!」
足音、人の声、鳥の声、風の音、そんな雑踏に紛れて一人逃げるように校門を出ようとしていた私は彼の声に捕まった。
そのまま聴こえないフリをしてもよかったけれど、まあそういう訳にもいかないだろう。私は立ち止まり、声の主の方を振り返って手を上げる。
「おー大地じゃん。どうしたの?」
あっという間に私に追いついた大地は、どこから走ってきたのやら、膝に手をつき乱れた呼吸を整えている。
「ハァ……ハァ……あの、お前の言ってた、あの……ハァ……」
「ちょっと、変質者みたいなんですけどぉ」
「うっ、うるせぇ……!」
大地は下を向いたままそう言うと、少し間を置いて真っ赤になった顔を上げた。あぁ、久しぶりに見たなこいつのこの顔。ドッジボールで泣かした時だっけ、いや、二人で田んぼに入ってうちのママに怒られた時とか?
「……俺、やってみたんだ。宮田に。お前の言ってたあのすれ違いのなんちゃらって……」
「方程式よ方程式。で、どうだったんだい?千秋の反応は」
いや、違う。これは、ずっとずっとむかしの……家までもうほんの少しの場所で迷子になって泣いていた幼い私を、必死に探して……。
「……目が合った!」
見つけてくれた時の顔だった。
「ね?言ったでしょ?わかるのよ。私、いつも見てるんだから」
私はフフンと鼻を鳴らすようにしてワザと得意げな顔を作る。
「あ……有沙……本当に宮田が俺のこと見てて……えっ、これってつまり……」
「そう。両思いってことよ」
うおおおおおおぉぉぉ、と歓喜の嗚咽のようなものを漏らしながら大地は両手で顔を覆う。その反応がなんだか千秋とそっくりでつい吹き出してしまう。
「お、おい笑うなよぉ……」
大きな両の手の平の間から大地が恥ずかしそう呟く。
校門の目の前でこんなやりとりをしてる私たちを、下校中の他の生徒達がチラチラと見ている。
「ごめんごめん。だってあまりにも………ってあれ?」
言いながら違和感に気づいた私は、目の前で悶絶している大地に恐る恐る尋ねる。
「ね、ねえ大地さん?それで、千秋は今どこにいるのかしら……?」
「えっ……宮田はそりゃ………あっ!」
と、素っ頓狂な声を上げて目を見開く大地。その顔はみるみる青ざめていく。
「まさかあんた、その場に置いてきたの?」
「いや、だって……本当に目が合ったからびっくりしてつい……」
幼い頃、先生やママに怒られた時と全く同じ反応を見せるその姿に私は大きくため息をつく。
顔をあげてもう一度、目の前であたふたとしているこの幼馴染を見る。
背が伸びて声こそ低くなったけど、やっぱり中身は子供の頃のままだ。どうしてこんな奴のこと好きになっちゃったかな。千秋は。
ぼーっと、そんなことを考えいている私を縋るような声で大地が尋ねる。
「あの、有沙……俺どうしたらいいんだろ、これ……」
「………そんなの決まってんでしょ」
私は小さく息を吐く。そして大きく吸い込んで、
「さっさと千秋のところに戻って告白してきなさい!!!!このバカ!!!」
校舎の方を指さして振り払うように叫んだ私の声に、近くを通っていた女子生徒がギョッととしたようにこちらを見る。
「は、はい!!!」
私の声につられたように、思わず背筋を伸ばして大声で返事をする大地。
千秋といい、この大地といい、本当に世話が焼ける子達。私からすれば二人ともまだまだ子供だ。
やれやれと肩をすくめた私の手を突然、知らない手が強く握った。
「有沙、本当にありがとうな。必ずお礼するから」
真っ直ぐに私の目を見据えてそう言う彼の声がいつもよりずっと低く聴こえた。
彼の、大きくて血管の浮いた手がさらに強く握る。
「そ、そんなのいいから早く行きなさいって……」
私は、思わず言い淀んで顔を背けた。
「おう!じゃあ俺行ってくる!!!」
大地はそう叫び私の手を離すと、そのまま踵を返し校舎の方へと駆け出した。
西日に照らされながら、まるで沈んでいく夕日と競争するかのように一直線に好きな人の元へと走っていく彼の背中に、幼い日のくだらない約束を思い出す。
泣いていた私の手を引いて、自分だって半ベソのくせに精一杯強がって前を歩く彼の後ろ姿。つんのめりそうになる私を心配そうに何度も振り返ってはかけてくれた女の子のような優しい声。もう私しか覚えていない約束。小さな私よりもさらに小さくて、白くて、ふにふにしていて、頼りない手。
すれ違いの方程式は正しい。だって解を知っている私が作ったんだから。
もうこれ以上解く必要なんてない。それなのに私は遠くなっていく彼から目が離せないでいる。
もう二度と振り返ってはくれない彼の後ろ姿にほんの少し、吐息のように零れた涙は、夕風に晒され誰にも知られないままに乾いて消えていく。
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