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19:35 洗面所
洗面所の電気をつけたとき、恩田はバスルームの扉が閉まっていることに気づいた。磨りガラスには、誰かの姿が透けて見えている。
「ただいま」
恩田の呼びかけに応えたのは、低い男の声だった。
「おかえり、『お父さん』」
洗面台の鏡に、黒いフードを被った長身の男が映っている。その唇が、恩田の肩の上で弓形にしなった。
「ひひ……っ」
恩田は鏡越しにその笑顔を見つめ、小さくため息をついた。
「俺の背後に立つなよ、 jaM」
男が黒い両手を天井に向け、わざとらしく肩をすくめる。
「つれないねぇ、『お父さん』は」
「今日襲撃するなんて、聞いてないぞ」
「一刻の猶予も許さない状況だったのよ。母親役のあの女、出先から『身内にスパイがいるかもしれない』って暗号送ってたんだから」
「工作員は自分じゃないか」
「それなー」
恩田家の四人は、家族ではない。日本に潜入している敵国の工作員が、「普通の家族」を偽装し共同生活を送っていたのだ。
彼らは互いに、役割のために与えられた偽名と経歴の設定しか知らされていない。それは父親役の恩田も同じだが、彼はそれ以上のデータ──三人の暗号名や得意分野を、日本政府から提供されていた。
恩田は日本で生まれ、敵国で工作員教育を受けた二重スパイである。
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