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ユキナはピンヒールを何足も玄関に出しっぱなしだ。ハニートラップが専門の彼女は自分の美貌以外には無頓着で、華やかなその笑顔には、家族を明るくする力があった。
偽りの名前、偽りの役割、偽りの家族。
けれど、そこに真実は欠片もなかっただろうか。
恩田は半年間四人で暮らした家を出て、そのドアを、後ろ手にそっと閉めた。
行ってきます。
そうこぼしそうになった唇を、一文字に結ぶ。
「行こう」
低く呟いた恩田の隣で、jaMが小さく吐息をもらした。
「誰かの家族を殺し合うような世界、早く終わるといいね」
誰より楽しげに仕事をこなすjaMが、珍しく真顔でそんなことを言う。
素性が知れないのは、この男も同じ。
今この瞬間にもそのアイスピックが、自分を狙うかもしれない。
誰にも気を許さない、それがスパイの鉄則だ。
けれど。
「……そうだな」
恩田という役を降板した男は、口の端を少しだけ上げて、顎を引いた。
決して背中を見せないjaMと並んで、蒸し暑い路地を大通りへ向かう。
「ねぇ、そのへんで焼肉でも食べてく?」
「馬鹿をいうな」
「だよねー」
暗い空には月も星もなく、低い鈍色の雲が、行き場のない澱んだ空気を地上に押し込めていた。
【了】
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