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蝋
「ハッピーバースデー、実採!」
あの家では、誕生日はそこそこ盛大に祝うのが恒例だった。私も彼女が生まれたことに大いに感謝していたので、その日は毎年彼女のために少しだけ豪勢な料理を作る。下ごしらえをする私の手元を嬉しそうに眺める彼女の視線は、何年経ってもくすぐったいものだった。
でも彼女の誕生日パーティーは沢山の人が彼女のもとを訪れる日でもあったので、私にとっては少しだけ煩わしかった。私が彼女を祝う気持ちと、この日にしか家に来ない人たちの祝う気持ちを、同じように嬉しいと彼女が言うのが嫌だった。
その点では、彼女以外が祝福することの無い、自分の誕生日の方が気楽ではあった。
ただ、私は生まれた日が分からないので、彼女に拾われた日が便宜的に誕生日と言うことになっていた。
扉の先は、天方家に来て5度目の誕生日、子供二人で食べるには値の張るケーキを食べに、妙な横文字の名前のカフェに行った日だった。彼女曰く有名店のはずだが、半端な時間のせいか客足は多くは無い。そういう私の知らない場所の情報を何処の誰から仕入れてくるのかは聞かない約束だった。
去年は作ってくれたのにな、と少し残念に思った。それでもこうして二人で出かけた時、注文を取りに来る店員を待ちながら、二人で向かい合って話す時間が私は嫌いではなかった。
「今、何時だろう」
「多分もうすぐ2時」
会話が途切れて尚彼女の声が聞きたいとき、私はこうして時間を訪ねることが多かった。腕時計しなよ、と何度も言われたが、そのたびに腕が締め付けられるのが嫌だとか、適当な理由をつけて先延ばしにしていた。
彼女が両手で頬杖をついて私を見つめてくる。この日だけはいつものふわりとした笑みではなく、にやにやという擬音が似合った。
「えっとお、実採がうちに来て、もう……何年だっけ?」
「5年だよ」
「そっか、なんかもっと長く一緒にいた気がするねえ」
5年の歳月の中で、彼女がこういう語尾を伸ばした話し方をするときは、何か隠している時だと把握していた。彼女がケーキ以外にも何かを用意していることは明らかだったが、私はこういう時気付かないふりをするのが常だった。彼女は私が気付いていることに気づかず、悪戯っぽく笑う。
店内の照明が突然消え、蠟燭の乗った小さめのホールケーキとリボンの架けられた箱を、蝋燭頭の店員が運んでくる。何かしらしでかすだろうとは思っていたが、ここまで大がかりだとは思っていなかった。蝋が贈り物に垂れる前に、手早く受け取る。
真っ暗な空間の中にたくさんの明かりが灯る。周りの客も全員頭に火を灯されてこちらを見ていた。蝋燭達による、不揃いな手拍子が店全体に響き渡る。無数の火によって部屋の気温が、じりじりと上がっていく。
揺らめく火を見ながら思ったのは、自分が普通の客の立場だったらこういう演出をする店には行きたくないな、という事と、ケーキは自分で選んだものを食べたかった、という程度の事だった。
「はっぴばーすでー、とぅーゆー、はっぴばーすでー……」
手拍子を伴奏代わりに、彼女の拙い歌声が、照明の消えたカフェの中に響く。他の客は突然演出に巻き込まれたはずだが、迷惑そうな素振りは一切見せず、ただ無機質な手拍子を続ける。彼らには耳が無いから当然か、と思う。
だとしたら今、彼女の歌を聞いているのは私だけという事になる。私の聴覚器官を構成する亀の手ができるだけ多くの音を集めようと蠢き、伸び……体に付いていられる範囲を超えて伸び、ぶつりと千切れた。断面から溢れた体液が、冷えた蝋のように固まる。膜を形成し、音を集めるため最適化された形状を導き出していく。
足元に散らばって尚、彼女の声に手を伸ばす亀の手を私は踏みにじった。今、彼女に歌を聞かせてもらっているのは私だ。私だけで良い。
床に蝋が垂れる。足元が固まっていく。亀の手が固まっていく。亀の手が集めた歌声が固まっていく。歌声を内包する時間が固まっていく。
箱の中身は安物の懐中時計と、両手に収まる程度の大きさのぬいぐるみだった。時計はともかく、ぬいぐるみに関してはとっくに人形遊びをするような歳ではなかったが、彼女が選んでくれたという前提の為かそれなりに好感を持った。
「来年はさ、この子だけじゃなくてもっと沢山実採の友達を呼ぼうよ」
歌い終えた彼女はろうそくの明かりに照らされて、無邪気に笑う。私は腕の中のぬいぐるみに力を込めた。みちみちと布と糸が蠢いた。力を籠める指の隙間にも、蝋が侵入してくる。動けなくなる。
彼女が私にくれたお友達。それなりに大事にしていたつもりだった。でも、いつの間にか失くしてしまった。失くした事に気づいたとき、少しだけ安堵したのは、彼女のあの言葉を無かったことにできたような気がしたからかもしれない。沢山の友達。彼女と二人じゃない誕生日を迎える日。
蝋の海の中で、彼女だけがその粘性に支配されず、記憶の中と同じように笑っていた。冷えて固まっていく自身を他所に、やはり彼女は天使なのだと思う。
「ここのケーキ美味しいでしょ、前行ったときはチョコのやつ食べたんだけどさ、誕生日はやっぱりイチゴかなって」
彼女は誕生日に食べるには甘さが足りないケーキを幸せそうに頬張りながら、無邪気に笑う。私はアラザンをかみ砕く歯をミシミシと擦り合わせた。固まっていく。
彼女が私のために選んで、注文してくれたケーキ。美味しくなかったわけでは無かった。けれど、前の年までのケーキのほうが私は好きだった。
「その時計、お小遣いで買ったからあんまり良いのじゃないけど、結構カワイイでしょ? これからはそれ使ってね」
彼女は時計のチェーンを指で弄びながら、無邪気に笑う。私は時計の蓋に移り込んだ私から目を逸らしたくなった。固まっていく。
彼女がいつも時間を訪ねる私に用意してくれた時計。それからずっと愛用していたけれど、彼女が教えてくれるアバウトな時間の方が、私の体内時計に合っていた。
沢山の祝福なんて無くて良い。ただ、毎年彼女だけが私に歌ってくれれば。私にケーキを作ってくれれば。同じ時を刻んでいけるのなら、それで良かった。
私に友達ができれば良いというけれど、それでも変わらず美桜さんはいてくれるの。このカフェに初めて行ったとき、美桜さんは誰と行ったの。もう、私にケーキを作ってくれないの。毎回時間を教えるのが嫌になったから、私にこの時計を贈ったの。これから私は、どうやって貴方の声を聞けばいいの。
蝋に侵食された体では問うことができなかった。固まる。彼女以外、視界を埋める物全部が。どれほどそうしていたのだろう。突然、蝋が砕ける。覆われていたはずのカフェもケーキも時計もぬいぐるみもいつの間にか立ち消えて、私は何もない空間の中を落ちていった。
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