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 落ちた先はやはりというかなんというか、例の部屋だった。私と彼女に関する、あらゆる思い出と繋がっているらしい。私は手の中に残っていたぬいぐるみの釦や時計のチェーン、ケーキ用のフォークを椅子に組み込んで、大きく伸びをした。体に蝋は残っていないが、全身の筋肉が心なしか硬直しているような気がした。  さっきまで彼女の歌を聞いていたせいか、部屋の静寂が妙に耳に刺さる。人間の耳は、信号の変化を感じるために無音の空間でも存在しない音を微かに脳に伝達していると聞いたことがある。今、完全な無音を知覚している私の脳は信号の変化を拒んでいるのだろうか。 「亀の手を踏みにじるなんて勿体ない」  鏡の中の私の不愉快な物言いが、今だけはありがたかった。静寂に塗りつぶされて、彼女の歌声が消えてしまうような気がしたから、雑音でも無いよりはましだ。人間の記憶から最初に消えるのは聴覚だと、何かで読んだことがある。他者を認識するパーツの中で、声が最も忘れやすいのだと。  そんなことが頭を過って、無性にもう一度彼女の歌が聞きたくなった。忘れてしまったら、理解することができないから。さっきの場所に帰りたくとも、扉は毎回同じ場所に私を吐き出すようにはできていない。だから、もう一度歌を聞くためには彼女を目覚めさせる以外に方法はない。 「からくりのパーツは彼女がくれただろう。あんな物、何にもならない」 「味噌汁の出汁になるよ」  彼女の花がまだ胃に残っているので、腹は減っていない。。だから味噌汁は飲みたくない。私はわざわざ言葉にはせずに、舌打ちで返した。控えめにしたつもりだったが、嫌に響く。新しい耳は、拾わなくて良い音まで良く拾う。 少々性能が良すぎるのかもしれない。過ぎたるは及ばざるがごとし、である。 「彼女がたまに作ってくれたの、嫌いじゃなかっただろう?」 「彼女が作った味噌汁は好きだったけれど、今は要らない」  時折気まぐれに食事を作ってくれた彼女の、台所に向かう後ろ姿を思い出す。忙しない足音に合わせて、纏めた髪とエプロンの結び目が揺れるのも、規則正しい包丁の音も、出来上がりを告げるタイマーの音も。全ての音が幸せな記憶と結びついていた。 「そうかな? 味噌汁を摂ることで、セロトニンが合成されやすくなって、愛が無くても幸福感を感じるらしいよ? 今の君は凄く孤独で、不安だろう。味噌汁が必要なんじゃないか」 「彼女が目を覚ませば必要無い」 「今でも彼女が私を愛してくれるって、思ってる?」  前言撤回、雑音は雑音であり、こう長く耳元に垂れ流されていると不愉快極まりない。私は静寂を覆う雑音を無視して、扉の生える辺りに座り込んだ。まだ扉は完全ではない。 「いや失礼、愛してなかったとは言ってないよ。ただ私が思ってるほど、誰かに料理を作るのって特別じゃないってこと」 「今にして思えば彼女は私の作った料理を食べる事よりも、私が料理を覚えることそのものを喜んでいたんだよ。その意味を理解している?」 「別に彼女の為じゃなくても亀の手を火にかけて、ぐつぐつぐつぐつ、煮える音を聞いていれば良いじゃないか。そういう細かな知覚こそ、幸福感への第一歩なのだよ」  雑音が流れ続ける。私は壁を殴った。驚いた扉が飛び出してくる。生えていないのではなく隠れていたのか。私を外に出さないつもりとは、卑怯な扉だ。  振り返る。床下まで届く衝撃にも反応しない。やはりパーツが足りない。  ショーケースのような椅子と、蝋人形のような彼女。  私は罰せられるべき扉に火を点けてやろうと思ったが、マッチが無かった。また舌打ちをしながら、扉を蹴り倒す。そのまま外へとは潜らずに私は扉を床に押し付けて擦った。火花が出るほど、扉が擦り切れて粉になるまで擦った。  灰になった扉が外からの涼風に吹かれて散らばるのが無性に腹が立ち、私はまた壁を殴った。
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