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魚
今回は水槽の備えられた部屋に出た。エアレーションの音が部屋中に反響する。手入れされた水草と、苔むした鳥居の模型や擬岩が、小さな聖域を水槽の中に演出していた。
この水槽には見覚えがある。彼女と二人で訪れた屋台。夏祭りではなく、初詣だったと思う。季節外れな金魚すくいの屋台で、彼女が掬った金魚を飼うために、私が誂えたものだった。
彼女が掬った金魚は片目が潰れていた。だから彼女にも掬うことができたと言っても良い。彼女は人間の心の隙間に入り込むのは得意だったが、それ以外の生き物の扱いは下手だった。
もっと奇麗なのに変えてあげるよ、と言う店主の言葉に乗り、椀に入った金魚を生け簀に戻そうとした私の手を、彼女が掴んだ。
「この子が良いよ、折角掬わせてくれたんだもの」
「そんなボロボロのを持って帰っても、すぐ死ぬよ」
「それでも良い」
結局彼女はその金魚を持って帰った。帰り際、金魚と言うのは運命の人に巡り合って愛されるために生まれた魚だと私に言い聞かせながら。
金魚が自然界に存在しない、愛玩用として人間に生み出された魚であることは知っていたが、初めて知るような素振りをしておいた。そして、養殖技術の確立によって金魚の用途は愛玩用に留まらず、餌魚として大量消費されていることは彼女には言わなかった。
頼まれたわけではないが、そいつの水槽は私が立ち上げた。彼女は自分の掬った金魚が、私が選定した水草と私が選んだ砂利と私が換えている水で暮らすのを、いつも見ているだけだった。
実採、この子の事大事にしてるんだね。何故か嬉しそうな彼女に、何時も苦笑いを返していたのをよく覚えている。
思っていたよりも、長生きしたように思う。金魚は上手く飼えば何年何十年と生きるようなので平均的には短命だったのかもしれないが、飼いだしたときの健康状態から見れば奇跡に近い時間を生きた。
死んだ金魚は彼女が死骸を目にする前に、庭のトマトの鉢に埋めた。その年のトマトは不味かった。
あの金魚は、もう死んだ。当然、今目の前の水槽の中に泳いでいるのは、見慣れた隻眼の金魚ではなかった。
両手に収まるほどもある、ぼやけた肉の塊。色とりどりの剝き出しの肉が光を反射して玉虫色を呈し、体表に鱗のごとく浮かんだ無数の目玉の存在を一見分からなくしていた。
背鰭は枯れかけの絡まった蔦を思わせ、所々に萎んだ風船めいた花が出来物のようにぶら下がっている。養分が足りなかったのだろうか。育て方が悪かったに違いない。
胸鰭は千切れたぬいぐるみの足と耳と胴体をちぐはぐにくっ付け、釦で無理やり縫い付けたようだった。断面の綿が零れそうで零れないので、綿がはみ出ているのではなく単に綿被り病を患っているのかもしれない。
腹鰭は折れ曲がったフォークとナイフを釘で体に止められ、舵鰭はマンボウではないので無い。鰓蓋が爪と歯と骨と花弁と鉛筆を零しながら開閉していた。
魚類。基本的に鰓を持ち水中生活を営み鰭を用いて移動する、変温の脊椎動物。骨の存在を確認しなければ魚類と断定することはできなかった。
「何なんだこいつは、気色の悪い」
「意味だよ」
水面に映った私が答えた。何処へでも現れるものだ、と混乱した頭の隅で思う。
「意味?」
「意味なく水槽を立ち上げる奴なんてあまりいないだろう?例えば、権力者はその貪欲な性質に自信の繁栄を託してアロワナを飼う。名家の池にはその長寿をもって家を見守るようにと鯉を飼う。でもね、それを託された魚がいなくなっても、意味は水槽がある限り残り続けるのさ」
あの日の金魚に持たせた意味。その残骸。純化された存在理由。意味の瞳の全てが自分に向いていた。金魚は愛されるために生まれてきた。それ自体が意味なのだとすれば、彼女が私に金魚の世話をさせたのは。意味が、愛せと私に訴えかけてくる。天使ではなく自分を、意味を愛せと。
私は意味を水槽から引きずり出し、水草剪定用の鋏を鰓の辺りに突き立てた。殺してやろうか。意味は痙攣し抵抗したが、私は何度も鋏を突き刺し、肉を、鰭を、眼球を抉り出した。意味の体表に浮かぶ無数の眼球から生暖かい黒い体液が染み出し、床に落ちては固まっていく。体液は水温よりも暖かかったため、意味は魚類ではないのだとぼんやりと思う。
体の両端からは体液の押し出される音なのか、石をこすり合わせたような不快な雑音が漏れ出る。ぎちぎちちがりぎりちぎりちぎぎごちぐぐえちぎちごち。
部屋の床全体が黒いゲルで覆われた頃には意味は時々痙攣するだけになっていた。鰓耙から螺子がぼろぼろと零れる。
そうだ、椅子のパーツを、この螺子を集めなければ。摂餌器官である鰓耙から零れてきたということは、螺子はまだ消化器官に残っているのかもしれなかった。私は意味の腹部を切開した。内臓がよく見える。
胃には萎びた蔦のようなものが絡みついている。伸びた背鰭が体表を突き破ってきているのかもしれない。腸は肝臓を三重に縛り上げ、脂を搾りだして体内を満たしていた。腎臓は腸が自身に侵食してくることに怯えてか、SOSのモールス信号を訴えて拍動していた。内臓の構造は複雑だが、幸い心臓は無いらしかった。
肝臓を腸の拘束から何とか開放したものの、手の中でぼろぼろと崩れてしまった。これ幸いとペーストになった肝臓と脂を体表に浮かぶ目に塗り込んで視界を封じる。擦れるような悲鳴を上げたので、幽門垂を引きずり出して口に詰めて黙らせ、震えている腎臓を引き裂いて、肺を取り出した。
肺。そう、これは肺だ。
水槽に住む者に肺は無い。だがこれは意味なのだ。この水槽を作り上げた時託された意味なのだ。ではこの肺の持ち主は。
「肺は浮袋から進化したと言われていたが、最近の学説では逆らしいね。肺と同じ起源の器官で不要になったものを浮袋に転用した、と言うのが新説らしい」
私の声が響いた。要らない物。要らないのに残っている物。先に進むために捨てられるはずだった物。息が苦しい。捨てられるのは苦しい。
鏡に映っていたへこんだ鼻とがらんどうの内臓では、酸素を必要としないはずなのに。いつの間に私は。
鼻の穴から体内に水分が流れ込んでくる。肉で出来た肺を飼育水が満たす。悲鳴の代わりに体の穴という穴から大きな気泡が立ち上るのが見えて、私の視界は暗転する。
視覚情報を失った体内に、淡水水槽特有の藻の匂いが飼育水と共に流入していた。
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