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「懐かしいね」
彼女が懐古している光景が、初めて出会った日、桜の木の下で手を繋いだ時だと気づくのには、少し時間がかかった。
「滑り台の影にいた君の目があんまり寂しそうで、気づいたら連れて帰ってたんだっけ」
今思えば無茶なことをしたと、よく両親が許してくれたものだと、彼女は懐かしそうに目を細める。どうしてそんな話をするのだろう。
これから先の事で、話したいことがたくさんあるのに。出かける予定の擦り合わせも、ケーキの材料の確認も、長らく使っていなかった水槽のセッティングも。全部、これから先の未来で、君と二人でしたいのに。
どうして昔の話をするのだろう。まるで、引っ越しの前みたいに。
「でも、正しい事だったって思ってる。あの時の君は何だか空っぽで、あのまま壊れてしまいそうだったから……でも今の実採は、開いていたところが塞がった感じがする」
そう感じるのだとすれば、埋めてくれたのは君だった。
君の楽しそうな顔を一番近くで見ていたかったから、こっそり朗読の練習をしていた。断じて、他の誰かと話すためなんかじゃない。君に食べさせたかったから、本当は不器用なのをごまかしながら料理を覚えた。断じて、この家を出ても食べていけるようになんかじゃない。君が喜ぶと思ったから、水槽はいつも奇麗に保っていた。断じて、他の誰かを愛する練習を金魚でしていたわけじゃない。もっと君を知りたかったから、私は今日まで生きてきた。
でも、ここから先の言葉は、知りたくない。知りたくなかった。
「もう、美桜がいなくてもきっと大丈夫だね。実採はもう、好きなところに行けるんだよ」
彼女は私の手を離した。そうするのが自然というように、あくまで優しく。
私は彼女を家族と認識しなかったが、彼女には私を家族と、切っても切れない物だと認識していて欲しかった。だがそんな願望に近い望みは打ち砕かれた。
彼女は寄生木が宿主を離れ、大地に根を張って花を咲かすことができるなどと本気で思っていたのだろうか。いや、そもそも私がどういう存在なのかすら、彼女は認識していなかったのかもしれない。
切り離せば何処へでも行ける根無し草で、ちょっとだけ彼女の下で心身を癒しているだけだと。そんな私の欠落を埋めて送り出すのが自分の役割だと。単独では水も吸えず、土に落ちれば腐り果てるだけの存在だと、思いもしなかったのだろう。
私は彼女になることも、彼女に理解してもらうことも叶わないまま、彼女を理解してしまった。それが酷く寂しくて、耐え難かった。多分、あの公園にいた頃よりも。
言葉で伝える代わりに、私は彼女を抱きしめた。互いの隙間が分からなくなるくらい、きつく。細胞の一片だけでも混じり合えば、彼女にも私の気持ちがわかると思った。
どれくらいそうしていたのだろう。いつの間にか私の脚は根になっていた。ちょうど良い。彼女の下から去るための脚ならもう要らない。このままここに植わってしまおう。
きつく、きつく彼女を抱きしめる。私の上半身は根に飲まれ、同化して枝になっていく。ちょうど良い。彼女に手を振って別れを告げるための腕も、彼女のいない空気を吸い続ける肺も、彼女のいない食卓の食事を消化する腸も、全部要らない。このまま彼女を認識するための五感だけ残して、それ以外の私の全てで彼女を巻き込んでしまおう。
枝に巻き付かれた彼女が、異変を感じ始めたのか僅かに藻掻く。逃れようとする彼女を拒むように、私の根は、枝は、きわめて細く伸びて広がり始め、彼女の細胞の隙間に入り込んでいく。交換されるように、彼女の陽だまりのような体温が、根から枝から、私の体に入り込んでいく。
深く、もっと深く体を伸ばす。動脈、静脈、神経、気道。彼女の内側全てに私を入れ込めば、彼女も私を理解するだろう。彼女の喉から、私の枝が伸びる。
別に私は、一方的に養分を奪おうなんて思っていない。ただ、離れたくないだけ。居場所を失いたくなかっただけだった。互いに互いを絡み合わせて、一本の木のようになってしまえば、もう不安になんてならない。私たちは永遠に一緒なのだから。
そんな夢を見た。
ふと目を覚ますと、私の体は五体満足の、五感も体温もある人間だった。裏腹に、腕の中で眠る彼女は冬空に晒された枯れ木のように、冷たくなっていた。不気味なほど軽いその体は抱き上げるとだらりと力が抜けきり、椅子に座らせると空気を抜かれたように項垂れた。
標本のような。マネキンのような。蝋人形のような。模型のような。それでも変わらず、天使のような。
理解できなかった。自分がしたことも、体温を失って尚彼女が美しいことも。私は何もかもを受け入れられずにその場に蹲った。全身をバラバラに引き裂かれながら、穴の底に落ちていくような眩暈。眼も、髪も、耳も、口も、内臓も、腕も失って落ちた先は、見慣れた部屋。
私と彼女が暮らし、私が彼女を殺した部屋だった。
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