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また、部屋
「思い出した。解かったよ、全部」
私は砕けた鏡に呟いた。当然、返事は無い。
「彼女は……美桜さんはもう、死んでいるんだね。そして、殺したのは私だ。この手で絞め殺した」
両手が痛む。鏡の欠片に刺された両手は、自分の物とは思えない量の血泥で固まっていた。その痛みでもって、私が砕いた私が、自分を責めているような気がした。
「でも……しょうがないじゃないか、ねえ」
何かを取り返そうとするように、掌を開いたり、閉じたりする。その度に血が剥がれて、傷だらけの皮膚が顔を出す。筋肉が脈動するたびに、皮膚が裂けていく。
「彼女は、自我の無いオブジェに過ぎなかった私を作り変えてしまった。欲求と言う燃料で動く、肉と骨で出来た人間に」
自分の頬に触れる。生暖かい肉の上を、塩水が流れていく。拭ってくれるひとはもう、いない。
「私は、彼女も一緒に生きてくれることを望んだ。でも彼女は天使だった。自分から離れて自由に生きろと、何の悪気も無く言った。彼女は私に執着なんてしていなかった。もし私が彼女の下を離れれば、彼女はきっと、別のオブジェを見つけて同じように手を差し伸べるのだろう。それが許せなかった」
もし、彼女が私に見出したと言う空っぽが埋まらなければ、私はまだ彼女と一緒にいられたのだろうか。彼女に関する全てを知ろうとせず、ただ漠然と養分を吸い、生きているだけならば。それとも、私が彼女を一目見た瞬間に求めなければ、その空白が無い私には、そもそも彼女が手を差し伸べることも無かったのだろうか。
「全部知りたいなんて、嘘だった。知りたくなかった。彼女の隣にいるのが、私でなければいけない理由なんて何処にも無いことも、彼女が私とは別々の存在として生きていけることも」
嗚咽交じりの呟きを、頭の何処かが他人事のように聞いていた。この調子で続いたら、そのうち涙の海で溺れてしまいそうだ。それも良いかもしれないね、とまた、私ではない私が脳の端で独り言つ。
「そのことに、終わりの直前まで気づけなかったんだ」
彼女の頬に触れる。最期に抱き上げた時と同じで、枯れ木のように冷たく硬い。今となっては、彼女の方がオブジェのようだった。
「美桜さん。私は貴方を、こんなにも好きになっていたんだね」
涙の一滴が椅子に落ちる。その水分が一時的に潤滑油の働きをしたのか、塩分が動力の伝達に影響を与えたのか。からくり椅子が動き出した。一滴、また一滴と涙が落ちる度、歯車の回転は速さを増していく。
廻りだした歯車の振動が、天使の恰好を崩していく。私は思い出の中にいる彼女の時間を、再び動かしてしまった。全てを知ったその先、理解することを恐れ、自分で止めたにも関わらず。出会った日のように、彼女が私の前に現れた瞬間、その全てを知りたいと思ったから。
窓からは赤い光が差し込んでくる。聞きなれないサイレンの音がこの部屋を満たそうと、遠く、何処かから歩を進めてくる。
この部屋こそが私たちの終わりだ。私はようやくそのことに気づいた。
彼女と同じになりたかった。彼女を理解するために。彼女に私を理解してもらうために。でも、彼女はもう、この世界から失われてしまった。私がこの手で、失わせてしまった。殺してあげようか。私の声が、歯車の音とサイレンに交じって聞こえた。もう、何もかも粉々にしたはずなのに。
足元には無数の鏡の破片から、虚ろな目をした私がこちらを見つめている。私はそのうちの一人を手に取り、まだ涙を零している右目で向かい合った。殺してあげようか。私の喉が、向こうの私の言葉を鸚鵡返しする。機械音声のような、抑揚の無い響き。殺してあげようか。鏡の内側と外側、どちらがどちらに向けて言っているのか、もはや区別がつかない。殺してあげようか。何度も何度も、代わる代わるに繰り返す。殺して、あげようか。
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