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「意思を伝える手段が地団駄とは、これまた幼稚だね」
聴覚を滑っていく彼奴の言葉を無視して、私は自分に足があることにこの時初めて気づいた。脚の先に足が付いて地面に立っている。五本の指と爪。この器官だけは、細かな色やバランスこそ違うものの、概ね天使の物と同じ様相をしていた。歩くこともできるだろうか。私は片足を上げ、下げ、反対側も同じようにし……鏡に腕が届く距離までの移動に成功した。
これでこいつを殺せる。そう思って腕を鏡に振り下ろしたが、鏡の中の私は腕に鏡が当たる直前に、私と同じような脚でひょいとしゃがんで見せた。鏡はこつんと音を立てて、腕を跳ね返した。
「驚いて損をした。声の事と言い、君はその体の動かし方が分かっていないみたいだね」
その発言通り、私の体に備えられた器官は、知識の中にある同名の器官……天使が持っていたものと同じ動きはしなかった。眼窩では無数の石が互い違いに伸びたり縮んだりするし、鼓膜ではなく亀の手の蔓脚が空気中の音を音をかき集めている。空気はへこんだ鼻を撫でるだけで体内を通らず、口腔は呼吸とも発音とも無関係に拍動する。そんな中で、やはり脚だけは意図通りに動かすことができた。
「でもその脚は……何だろうね、君に最初に芽生えた欲求の産物か、或いは……」
私に芽生えた欲求とは、貴様への殺意の事か。相変わらず言語未満の音しか生成できないが、さっき言っていたことを信用するならこれで伝わっているのだろう。
「まさか、何も覚えていないのか」
鏡の中の私が大げさに体を横に傾ける。意図の分からない仕草にまた殺意が湧いたが、パイプで形作られた首を傾げることができないからだと気づいた。仕草に気を取られて一度は掴み損ねた相手の言葉を反芻して、また気づく。ここに至るまでの経緯を覚えていない。ここが自宅なのか外出先なのか、自分の意志でここにいるのか何者かに連れてこられたのかも判別がつかない。
私をここに閉じ込めたのは貴様か?私の喉は意味のある言語を結ばないと理解していても、そう問わずにはいられなかった。
「本当に記憶がないらしいね。私の知る限り君は、自分でここに閉じこもっていたんじゃなかったかな」
口腔が開いたまま、縁だけが震える。溜息を吐かれた、と直感で分かったのは、彼女も私だからだろうか。とりあえずここにいるのは自分の意志らしいが、そうなると自分がここに閉じこもっていた理由がよく分からない。部屋の中には鏡とからくり時計のほかに何も無い。
「閉じこもった原因はここで考えるより、外に行った方が良いと思うよ」
外。その言葉に釣られ、窓を見た。差し込む光はまだ赤い。それなりの時間が経過しているように感じるので、やはり窓ガラスが赤いのだ。時計が告げる時間は、何時如何なる場所においても残酷なまでに正しいのだから。
「そっちの外じゃなくて、こっち」
鏡の中の私が指した方を見ると、扉があった。さっき部屋の中を見回した時には無かったはずだ。薄いベージュに赤い木目が走り、取っ手が指を開いたり閉じたりしている。あれを捻れば開くのだろうが、私の手では取っ手を掴むことができない。鏡の中の私を睨む。
「蹴破るか、体当たり」
当然という風に助言してくれたが、それでは扉がなくなってしまう。戻ってきた後困るのではないだろうか。
「構いやしないさ、すぐ生えてくる」
なるほど、さっき扉を見つけられなかったのは、前に入ってきたときに破って、生えてくる前だったのだろう。扉に向かおうとした私はふと、床に落ちた天使の残骸を掃除して行った方が良いんじゃないか、と思いたった。
パイプを145度回転させ、鉱物に景色を反射させる。板張りの床には染み一つなく、ただ木目を晒しているだけだった。昇天したのだ、と反射的に理解した。何処か寂しさを覚えたのは何故だろうか。
気を取り直して全身でドアを叩くと、生肉をハンマーでたたいたような心地と共に、視界が反転した。
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