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 扇風機をひっくり返したような音を立てながら、私は開けた場所に倒れ込んだ。遊具の少ない公園だった。私はこの場所を知っている。私が持つ、一番古い自我が芽生えたのはこの場所、この時だ。  ここに来る前の事、ここに来てからの事についてほとんど記憶が無い。自分を産んだ者、育てた者、それらに関する一切の認識を持たないまま、公園の遊具に憑りついて佇んでいる。それが私の自己への認識だった。一般的に捨て子というのだろう。どれくらいの期間をあの公園で生きていたのかも覚えていない。数日だったかもしれないし、何か月、何年とあの場所にいた可能性も否定はできない。ともかく、私にとって自分という存在は気が付いたら発生していて、それ以前もそれ以後も無い筈だった。外の世界へと導く天使が、彼女が目の前に現れるまでは。  桜が散り切る少しだけ前の時期だったと思う。自分が公園にいる、という意識の次に芽生えた意識は、自分ではない何かがそこにいる、という物だった。彼女は忽然と、桜の木の下に佇んでいた。花びらで埋められた地面に移動してきた形跡は無く、まるで空から舞い降りたように。その表情は私の位置からはぼやけて見えない。散りゆく桜の幽霊のような、彼女が視界の外の誰かへと、落ちていたボールを投げ返すのを見ていた。  私はその光景によって初めて、この世界に存在するのが自分一人ではないという事を理解した。  目を離したら消え失せそうなほど繊細な、その横顔から私は目を離せなかった。そのうち、彼女が私の視線に気づいたらしい。柔らかそうな髪が風に靡く。目は合っているのだろうが、その表情はやはりぼやけて分からない。  彼女が何処から来たのか、何時から此処にいたのか、何を考えているのか私には分からない。拾ったボールに付着していたのであろう泥で汚れた手が、ただ夢のように白く輝いていることしか理解できなかった。 「君はずっとここにいるの?」  先に声をかけてきたのは彼女の方だった。不思議そうな声色と、少し傾げた首。私は訳も分からず頷く。あの公園で遊具に凭れかかって時を過ごす以外の生き方があることは、当時の私にとって想像もできなかった。 「こっちに来られる?」  声を出さない私に構わず、彼女は続けて言葉を投げかけてきた。私は訳も分からず頭を振る。自我が生まれた場所に根を張って朽ち果てるのを待つ以外の生き方があることは、当時の私にとって想像もできなかった。 「嘘」  ぼやけた彼女が、誤差程度にきつくなった語調と共に、そっと私に手を差し出す。五等分された桜のような爪の一枚一枚だけは、不思議とはっきり視認できた。乾いた泥が添えられた、見慣れた花と同じ色のはずのそれを美しいと感じたのが、自己と他の認識に次いで芽生えた私の意志だった。心の奥底から芽吹いたそれを認知してしまえば、もはや自我の根を宿す場所は公園の遊具では無かった。 「そんな寂しい所にいないで、おいでよ」  その言葉に頭が真っ白になり、私は彼女の方へと夢中で駆け出した。自分の体の制御が出来ない。握り返す手がない事も忘れて、腕を差し出した。足元で、ごとりと重い音がした。足元には、鉄筋と鉱物が落ちていた。鉄筋を支えていたであろう留め具も。自分の腕を成していた物が、公園の遊具と同じ材質であることに初めて気づく。  気が付くと私の右手は五本の指で彼女の手をしっかりと握り返し、遊具に映った私の左目はそれを見て不思議そうに瞬きをしていた。何故、何時の間に生えてきたのだろう。一拍遅れて、乾いた泥が剥がれる感触と、折れそうに細い指に宿る陽だまりのような体温が伝わってくる。  私は途端に、生え変わりたてでまだ体温が回り切っていない自分の手が恥ずかしくなった。手を引っこめようとしたが、彼女がしっかりと握り返してきて振りほどけない。じわりじわりと、彼女の体温が私に移っていく。 「わたしは美桜(みお)だよ。君は?」  間近で見る彼女は自分よりも、そして最初に見て思っていたよりもずっと小さかった。星屑を散らしたような虹彩と、薄紅色をした唇の僅かな歪み。十に満たない子供だった当時の私には、その微笑みの意図が全く分からなかった。こういった表情をアルカイックスマイルと呼ぶことを知ったのは、随分後の事だ。  私の喉は、彼女に応えようと不愉快な音を上げた。その瞬間、私は今の自分が中井(なかい)実採(みとる)と言う人間である事と、今の自分の姿が人間の定義から外れていることを思い出した。  あの日、私は彼女と共に歩み生きていくことを選んだ。それが私に最初に芽生えた欲求だった。それからずっと私は知りたかったのだ、彼女が私を救った理由を。私と彼女が、一緒に生きていく理由を。
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