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 気が付くと私は元の部屋に戻ってきていた。板張りの床に立つ足と、姿見の枠が見える。夢だったのだろうかと一瞬思ったが、腕の先端で蠢く10本指の感覚が、もう最初に目覚めた時の私の体では無い事を物語っている。 「外からの生還おめでとう」  真正面に視線を動かして全身を確認すると、中途半端に人間の形を成した我が身は却って不気味だった。 「それにしても……不格好だねぇ、それじゃ立体視出来ないだろうに」  鏡の中の私が片目を眇めて、未だ硬質のもう片方で私の顔をしげしげと眺めた。左右非対称の視線に腹が立つ。自分だって同じ顔のくせに。殺してやろうか。今の姿の歪さは重々理解しているが、視界に関しては問題ない筈だ。両目が鉱物だった時からこの部屋の景色はそう変わらない。 「まあいいや、彼女の事を思い出したのなら後は早いだろう。まだ思い出さなきゃいけないことが有る、さあ行くよ」  行くよ、と言われても何処へ行けば良いのだろう。最初に抱いた欲求のこと以外に思い出したいことなど無いのに。私が突っ立っていると、鏡の中の私はからくり時計のあった方の壁を指す。そこにあったのは天使の血に塗れたからくり時計、ではなく椅子だった。一見何の変哲も無い、一般家庭の食卓で使われているような椅子。だが背凭れの後ろや幕板の下に、歯車のようなものがはみ出している。何らかのからくり仕掛けが備えられているようだ。  その椅子に座っているのは、彼女だった。いや、あの時計に磨り潰されていた天使なのだろうか。どちらでもそう変わらない。二人は私と鏡の中の私のように、同じ顔をしていたのだから。  彼女は出会った日と同じアルカイックスマイルを浮かべて、最初からそこにいたように部屋に馴染んでいる。もしかすると、気づかなかっただけでずっとここにいたのかもしれない。さっきまで私の両目が鉱物だったから、上手く見えなかっただけで。  美桜さん。声、のつもりで発した雑音をかける。反応が無い。  陶器人形のような肌、波に揺られる塩草のように柔らかい髪、絵に描かれた小鹿のような睫毛、抵抗されようともへし折れそうな腕、立っているよりも空中を飛ぶ方が似合いそうな脚。彼女の体をまじまじと観察したことが一度も無いとは言わないが、ここまで不躾に視線を注ぐのは初めてかもしれない。ただ、瞼は閉ざされており、その眼球の色味を窺うことはできなかった。  美桜さん、起きて。私は尚も雑音を発しながら、揺さぶって起こそうとした。だが不思議なことに彼女の体はびくともしなかった。いつだったか抱き上げた時は、あんなに軽かったのに。 「君から落ちた金具を椅子に嵌めてごらん」  鏡の方を見ると、足元に先ほどまで私の両腕を留めていた金具が落ちていた。あの公園に落として来た筈なのに、そう思って自分の足元を見ると、やはり全く同じ物が散らばっているのだった。貴様が拾ってきたのか、と例の雑音で聞いてみても、彼女について知りたいんだろう、なら早く拾いなよ、と要領を得ない返事が返ってくるだけだった。私は鏡の中の私に渋々従い、金具を拾ったが、からくりの構造など分からない。手探りで金具をあてがってみると、かち、と小気味良い音を立てながら椅子が金具を飲み込んでいった。  からくりは動かない。そこに座っている彼女も。話が違うぞと鏡の方を睨む。 「今の金具一つで直るんなら、叩いても直るさ。まだまだ探さないと。椅子のパーツも、君の体もね」  鏡の中の私が扉の方を指す。扉は既に生えてきていた。外見は先ほどとほぼ同じだが、少し厚みが増したような気がする。新たな生を受けたばかりのところに申し訳ないが、仕方ない。私は取っ手を掴んで捻り上げる。扉の手首が青黒く変色し、苦痛を訴えて痙攣したが、構いもせずに引っこ抜いた。取っ手を引き抜かれた部分に穴が開く。私はそこに手をかけ、扉を開けた。扉は引き戸だった。
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