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髪
扉の先でまず視界に飛び込んできたのは小さなドレッサー。その周囲に数えきれないほどの衣服が吊られているのに気づき、ここが彼女と暮らした家の納戸だと思い出す。彼女の髪を梳いて、その日の服に合うリボンで束ねるのがここでの役目だった。しかし見回しても彼女はいない。鏡に映った私は顔面蒼白で、頭部に絡まる蔦と同じ色の、喪服のようなブレザーとプリーツスカートを身に纏っていた。胸のポケットには、粗末な造りの薔薇のコサージュ。妙に着心地が悪かった。
「これは喪服じゃなくて、制服って言うんだ」
鏡の中の私が小馬鹿にしたように告げる。私が黙っていると、彼奴は肩にかかった蔦を邪魔そうにかき上げる。
「髪の毛に触ったり触らせたりって言うのは信頼の証だっていう人もいるけれど、だとしたら美容師ってのはとんだ浮気者なのだねえ」
もっともらしい講釈を垂れているが、まるっきり順序が逆であることに気づいているのだろうか。髪を整えるという行為に金を貰って従事する専門家がいることが、その行為が特別なものだという理由なのに。
私は無視して、ドレッサーの引き出しから無作為にリボンを取り出す。長年放置された香炉灰のような色が、蔦を統率していく。無理やり一本に纏められた蔦が、抗議するようにぱきぱきと音を立てる。枯れかけている。反射的にそう思った。
「それ、似合ってないよ。無理して子供らしくしてるように見える。別の髪留めにしたら」
鏡の中からは、変わらず野次が飛んでくる。言われなくてもそっちに分かっていることはこっちにも分かっている。ただ私の小遣いの殆どは彼女のリボンに化けてしまったので、私は身を飾るとき、いつも彼女が使わなくなった物を譲り受けて使っていた。衣服だけは背丈の関係でそういう訳にはいかなかったのだが。
立ち上がると、折れた蔦が床に乾いた音を立てた。スカートの丈が、適切な長さよりも若干短い気がした。長く着られるように大きめのサイズで誂えてもらった制服だが、私の骨格の変形は空気を読まなかったらしい。この日の私は凡そ、出会った日の彼女一人と半分。私が大きいのか、彼女が小さいのか、よく分からない。
「自分の意志とは関係なく、着る服を変えなくてはならないのって……」
「実採、そろそろ支度始めないと、集合時間に間に合わないよ」
もう一人の私を無視して、自分の身なりを確認していると、彼女が背後から声をかけてきた。鏡の中の私が黙る。見慣れたにやにや笑いをそぎ落とし、表情を失った自分の顔。私はこんな顔をしていたのか、とぼんやり思う。彼女は当然のように私を押しのけてドレッサーの前に座った。
「小学校卒業するの、寂しい?」
卒業。彼女にそう言われて初めて、この光景が人生初めての卒業式の朝だと気付く。この日以来着ることの無い、無個性という言葉で仕立てたような制服と通学鞄。彼女も私とほぼ同じ服装をしているが、コサージュは身に着けていない。在校生と卒業生を区別するためのアイコンなのだろう。
「別に……」
「じゃあどうしてこんなところでボーゼンとしてたの」
煩いもう一人の自分の首を締めあげてやるには如何すれば良いか策を練っていただけです。そう告げようとして、止めた。彼女ならきっと、あの不愉快と嫌悪を練って煮詰めたような二次元の私とも、仲良くするようにというだろう。嫌っていることが表に出なければ、好きになるよう努力を強いられることも無い。だから、彼女はもう一人の私の存在を知らないままでいてくれた方が良いのだ。
不思議そうに首を傾げる彼女の足元に倒れる鞄は、私の物より傷が入っていた。1年生の頃ははしゃぐばっかりで、6年間大事に使わなきゃ何て中々思わなかったから、といつだったか照れ臭そうに笑っていた。私にこの学校の1年生だった時間は、1秒たりとも無い。
「私と美桜さんは同じ年数分この学校にいるのに、私だけ先に卒業するのはおかしいと思っていただけ」
喉から勝手に漏れ出た台詞に、驚くほど納得した。昨日まで同じ制服を着て同じ通学路を通って同じ業者の給食を食べていたはずなのに。3年生まれた年が違うからという理由だけで、これからは別々の場所に通いなさいと押し付けられる。それが納得できなかった。通った年数だけを見れば、私はまだ美桜さんと同じ3年生のはずなのに。同じ教室で授業を受けて、同じチームで行事に参加して、同じ日に卒業すべきであるはずなのに。
「自分の年齢じゃなくて、そういうことで卒業するかどうか決めたいんだ。皆気にしないことに気づくなんて、実採は頭良いね」
笑う彼女に無言で首を横に振る。私は頭が良くなんかない。物事を考える基準が回りとズレているだけだ。もっと自分に自信持ってよ、と笑いながら、彼女は私の頭を撫でた。萎びた葉が乾いた音を立てて落ちる。余分な葉を落とし終えた彼女はいつものごとく唇だけで微笑み、私にドレッサーの前に座るように促した。私の持っていた櫛をするりと引き抜く。
「髪の毛やってあげるよ、いつものお返し」
彼女が私の頭頂から伸びた、醜く萎れた蔦に触れる。白い指によって灰色が解かれ、彼女の手の中で、さらさらと塵になっていく。束縛から解放された蔦の一本一本が、櫛に邪魔されずに効率良く彼女の肌に触れるため、表面積を増やそうと画策する。ふとした表紙に千切れて彼女の手から零れ落ちないように、強度を増そうと画策する。彼女の白い肌の上に乗った時映えるように、黒さを深めようと画策する。シュレッダーにかけられた暗闇のような、墨で染められた蜘蛛の糸のような、細くて強くて黒い糸に、分かれていく。
彼女の体に纏わりつこうとする糸を宥めるように、彼女はいくつかの束に纏めていく。彼女に撫でられることに気を良くしたのか、永遠に細胞分裂を繰り返そうとしていた糸は、だいたい10万9千本で増殖を止めた。ゆっくり、ゆっくりと、伸び放題の蔦に覆われていた私の頭は丸いシルエットを描いていく。
彼女は紡いだ糸を纏めて、2本の縄を仕立てていく。千切れないように丁寧に、引っ張っても、鋏を入れてもびくともしない、強固な縄が編み上がっていく。一本一本の糸は弱くても、沢山集めれば、大樹のように何物にも脅かされない固い繋がりになるのかもしれない。それは目に見えない物であってもそうなのだろうか。頭を編まれながらぼんやりと思った。
「はい、できあがり」
頭をぽんと軽く叩かれて、我に返った。鏡越し、背後で得意そうに笑う彼女。床に散らばった葉が、崩れて風化していく。
「ほら、いつも思ってた通り、実採は結んだだけより、ちょっと凝った髪型のほうが似合うよ」
鏡の中には、両サイドの髪を編み込んだ自分が写っている。呆けた表情。ヘアピンで固定された煤色の硬い毛並は、リボン一つで支えられた柔らかな彼女のそれとは程遠い。その事実は明確に、私に悲しさという感情を思い出させた。自分の姿を見たくなくて、俯く。いつの間にか、リボンと髪だった塵が足元の一か所に集まり、大きな一つの塊を成していた。私は視界を塞ぐものを求めて、無我夢中でその中に飛び込んだ。
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