部屋

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部屋

 からくり時計の歯車に挟まれた天使が、その回転と共にゆっくりと潰れていく。私が最初に得た視覚情報はそんな物だった。視覚情報の認識から一拍遅れて、歯車同士が擦れる音が耳を擽り始めた。  天使は悲鳴の類は一切上げず、薄い笑みのまま少しずつ原形を失っていく。白くしなやかな脚。折れそうな胴。花のように目一杯開いた手。靱帯から二つに引きちぎった桜貝のような爪。ああ、と思った時には、天使の形の良い顎まで歯車に飲み込まれる時分だった。  歯車の擦れる音に囲まれながら、私は潰れていく天使をただただ見守っていた。べちゃ、べちゃ、と何度か重いものが床を叩く。ふわりと飛んでいきそうなものなのに、天使にも重さはあるのだ、と靄のかかった頭で思う。流れる水のような髪とちぎれた肉片が歯車から落ち、フローリングの床を汚していくのをただただ見ていた。  辛うじて原形を残した目玉が床に落ち、再び歯車の音だけが空間を満たし始めた頃、私は我に返った。私は正方形の部屋の中、壁沿いに凭れかかり、反対側の壁に立てかけられた時計を見つめていた。それ以前の記憶は全く無い。此処が何処なのか、自分が何なのかも。  どうしたものかと思案しながら、どのくらい時間が経ったのか。時計の文字盤を見る。時刻は……9時だ。午前なのか午後なのかは分からないが、とにかく9時なのだ。自分がからくり仕掛けから文字盤に意識を映したことで、自分の視界が動かせることに気づく。  そろそろと部屋の中を確認する。摺り硝子の窓からは、赤い光が差し込んでいた。赤い光。あの時計を信用するのなら、窓の外、空の色は青か、黒のはずだ。止まっているのだろうか、と考えてすぐ、からくり仕掛けが先ほどまで作動していたことを思い出す。先ほど歯車が回り、天使を磨り潰していたのが9時ちょうどを告げる仕掛けだったのだろう。  私は唯一この部屋で動いているものである時計に全幅の信頼を置くことに決め、赤い光に関しては窓ガラスが赤く着色されているのだろうということにした。仕掛けを動かし終えた時計は、先ほどよりも控えめに歯車の音を空間に注いでいる。しばし音に身を委ねていると、その中に先ほどまでとは違う響きが混じっていることに気が付く。機械音というには規則性の無い、気味の悪い音。私はじっと耳を澄ました。  ぎし、ぎし、きし、ぎし、きし、しぎし、きしししぎし、きし、ぎし、ぎしきしぎしきししきししししし……。  笑い声だ。控えめだが、異様に不愉快な含み笑い。何者かが何処かから私を観察して、嘲笑っている。誰だ、と声を出した。そのつもりだったが、喉から漏れ出てきたのは、ぎちぎち、がり、という石をこすり合わせたような不快な雑音だけだった。喉が潰れているのだろうか。確認しようと手を喉に当てようとした。肩の関節がぎこちなく動き、肘は曲がらず、腕の先は虚空を掠めた。 「全く君は相変わらず笑えるなあ。その様子じゃあ、自分がどういう状態かなんて、全く判っていないんだろう」  笑い声の主は、明確に人語で主張してきた。脳裏に直接響いてくるような、不愉快なアルトが部屋の中を反響する。この部屋の何処かにいるはずだ。私は視線を動かす。あまりに焦って動かしすぎたせいか、私の視覚器官の一部がひび割れて砕け、ごとりと落ちた。転がっていく視覚器官の欠片を視線で追っていると、欠片は壁の一片に立てかけてあった姿見にぶつかって静止した。部屋が傾いているのかもしれない。 「私が見える?」  滑らかな鏡面に映っているそれは、直感的に自分だった。 眼窩から突き出た鉱物で構成された目と17角形に陥没した鼻と無数の亀の手が成す耳とクラゲの傘の如く半端に閉じようとする開きっぱなしの口を持っていた。口の開閉は発する言葉には連動しておらず、一定の間隔で拍動している。視線を下にずらすと、ちぐはぐな方向を向いた何本ものパイプで構成された首。その一部が球形のサランネットで覆われた風鈴の肺へと伸びている。パイプと風鈴のどちらから言葉を発しているのかは分からないが、声は確かに鏡に映った自分から聞こえてくるようだった。  私の姿は歯車に飲み込まれていた天使の造形とはあまりにもかけ離れている。それどころか、生き物として体の構造が全く違っていて、進化論の敗北と言う妙な言葉が頭を過る。天使が神の手による芸術作品なら、私は素人が付け焼刃の知識で作った前衛的なオブジェだ。私は夢を見ているのだろうか。 「天使とそうじゃない者が同じ形をしている訳無いだろう?だからこれは現実だ、ある意味ではね」  鏡の中にいる私は腕、正確には天使の場合腕が生えていたのと同じ位置にある、複数の鉄筋が錆びたジョイントで繋げられている物を、ぐるりと回す。回していないはずの私、鏡の外にいる方の私の肩から異音が響き、心なしか鉄臭い匂いが漂った気がした。ガタが来ているのかもしれない。  抗議の声を上げようとしたが、相変わらず私が発することができるのは不愉快な擦れ声だけだった。難儀している私の様子を見ていた私は再び笑い出した。向こうは人語を操る能力にたけているようだが、笑い声だけは私が発している音と同じメカニズムで発しているように感じた。ずっと聞いているが、慣れる事の出来ない耐え難く不愉快な声である。殺してやろうか、そう思って右腕を動かしたが、リーチが足りずに鏡の表面を僅かに掠っただけだった。 「いや失礼。まあ私には君の思っていることはある程度分かるから無理せずとも良い」  口腔の拍動がリズムを乱し、その形が一瞬空豆形に歪んだ。声だけでなく表情でも嘲笑われたのだ、そう理解した私は思わず足で床を鳴らして抗議した。足。そう、足なのだ。
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