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「今日も雨だね」
わたしが何度目かの眠りから覚めた朝、病室の窓辺に立った彼女は外を眺めながら言った。開け放たれた窓からは湿気を帯びた雨の香りがする。
「……いいの? 窓開けて」
わたしの質問に振り返った彼女は薄く微笑んだ。
「覚えてるんだ?」
「覚えてる。あんたは?」
「覚えてる」
どちらかが目覚めたとき、最近はいつもこのやりとりをする。互いが互いのことを忘れていないかどうかの確認。
「君、今回は何を忘れたの?」
「覚えてない」
「そう」
「あんたは?」
「さあ」
「そっか」
彼女は頷くと再び窓の向こうへ視線を向けた。その細い背中は頼りなく、見ていると不安になってくる。わたしはベッドから下りると彼女の隣に立った。
「病室の窓、固定されてるのかと思ってた」
「誰も開けないからね。この部屋は軽症者しかいないから、みんなすぐに出て行くし」
「わたしたちはまだいるけど」
わたしが言うと彼女は「そうだね」と呟くように言った。わたしは眉を寄せる。いつもなら軽く笑ってくれるところだが、彼女の表情に笑顔はない。
「どうしたの?」
「なにが?」
「あんた、なんか変」
「……この病気が重症化するとどうなるか知ってる?」
ザッと雨音が強くなり、大量の雨粒が街を塗りつぶすように落ちていく。
「重症化? たしか、眠り続けるって」
「そう。ずっと眠り続ける……」
「でも永遠にってわけじゃないよね。目覚めた人だっているんでしょ?」
彼女は「いるよ」と頷いた。
「だけどさ。重症化して起きたとき、その人の記憶には何が残ってるんだろうね」
そう言った彼女の表情はあまりにも無表情で、わたしは思わず彼女の手を掴んでいた。彼女は驚いた様子もなく握られた手を見下ろすと「なに?」と首を傾げた。
「あんた、やっぱり変だよ。どうしたの?」
彼女はわたしの顔をじっと見つめると「今のところ、重症例は少ない」と口を開いた。
「その少ない症例の子をわたしは知ってる」
彼女はそう言うと振り返った。その視線の先にあるのはわたしのベッドだ。そのとき、ふと思い出したのはわたしが目覚めたとき彼女が言っていた言葉。
ーーそのベッドにいたのは君じゃなかったはず。
「わたしのベッドにいた子?」
「うん。君が来る少し前に何週間も目覚めなくなって、気づいたらどこかに運ばれたあとだった」
「どこに?」
「さあ。重症者用の病室がどこかにあるんじゃない?」
「会いに行かなかったの?」
「……正直その子のことも、もうあんまり覚えてない」
彼女は薄く笑みを浮かべると再び窓の向こうへ視線を向けた。
「でも一つだけ覚えてることがある。あれはたぶん彼女が眠りにつく前、最後に言ってた言葉」
「ーーなに?」
「向こうの世界は、真っ白で綺麗だった」
「なにそれ。向こうの世界って、どこの世界よ」
冗談でも言ったのかと思ったわたしは半笑いで彼女に言う。しかし彼女は無表情のまま「眠りの向こうにある世界だよ」と答えた。その様子からどうやら冗談ではなさそうだ。
彼女は小さく息を吐くと「君は、その世界を見た記憶はある?」とわたしに視線を向けた。
真っ直ぐな目。
その瞳は何かを訴えかけている。
そんな気がするのに、その何かがわからない。わたしは彼女の目を見つめ返しながら「ない、けど」と小さく答えた。
「……だよね。君は、そうだよね」
その言い方が引っかかる。わたしは彼女を見つめたまま「まさか、見たの?」と訊ねた。彼女はそれには答えず、薄く笑みを浮かべると窓の向こうへ再び視線を向けて「雨だね」と呟いた。
わたしはしばらく彼女を見つめたが、返事をする気はないと判断して同じように窓の外を見る。雨は少し弱くなったようだ。しかしどんよりとした雲に覆われた街は暗い色に染まっている。
「……なんか雨っていいよね」
しばらくの沈黙の後、彼女が言った。
「え、どこが。ジメってて気持ち悪くない?」
「でも景色が綺麗だよ」
「……綺麗? これが?」
わたしは眉を寄せる。彼女は無表情に頷いた。
「雨の音で街の音は聞こえない。雨の匂いで余計な匂いはしない。街は灰色に染まって時間が止まったみたいじゃない?」
「いや、よくわかんない」
わたしの言葉に彼女は「ーーもう、君だけなんだよ」と呟いた。
「なにが?」
しかし彼女は無言で振り返ると大きく伸びをしてベッドに戻っていく。
「そういえば君、まだ検査受けてないでしょ? 早く受けた方が良いよ。症状が改善されてるかどうかは寝起きの脳波の状態でわかるみたいだからさ」
「……うん」
釈然としないまま、わたしは頷いてベッドに戻ると枕元のナースコールを押した。
「ねえ」
彼女はベッドの端に腰掛けてわたしを見ながら口を開く。
「ん?」
「手、貸してくれないかな」
「手?」
「そう。手」
言って彼女は両手を伸ばす。わたしは彼女と向き合うように座って「なに、ほんと変だよ」と戸惑いながら両手を差し出す。すると彼女はそっとわたしの両手を握ってきた。
少し冷たく、しかしほんのりと温かな彼女の手の感触は柔らかい。
「……君は温かいね」
「そりゃ生きてるし」
言いながら彼女の手を見つめる。真っ白な手は細く、今にも消えてしまいそうだ。わたしはそんな彼女の手を強く握る。それに応えるように彼女の手にもまた力が入った。
まるで何かを確かめるように。
その時間はおそらく十数秒くらいだっただろう。バタバタと部屋に看護師が入ってくると、彼女はするりと手を離してしまった。
「歩けますか?」
定型文のような看護師の言葉に促され、わたしは立ち上がる。
「またね」
彼女の声に振り返る。彼女はベッドに座ったまま微笑んでいた。その笑顔は今まで見たどんな笑顔よりも儚くて、わたしは思わず立ち止まった。
「どうかしましたか?」
看護師が怪訝そうに言う。わたしは「いえーー」と答えてから病室を出た。彼女に「またね」と返すことすら忘れて。
それが、意識のある彼女と会った最後だった。
検査が終わって病室に戻ると彼女は眠りについていた。またすぐ起きるはず。そう思いながらわたしは待った。
一日。
二日。
三日。
四日。
やがて一週間が経った頃、彼女はベッドから消えた。
聞くと重症者として認定されて別の病室へ移されたそうだ。それを機に、わたしの症状は不安定になった。しばらく眠りにつくことはなくなり、回復したかと思うと再び眠りにつく。それを繰り返し、やがてわたしの記憶は一つのことだけを除いてなくなってしまった。
「……ねえ、あんたはいつになったら目覚めるの?」
静かな病室。暗い室内には一台のベッド。そこに眠るやせ細った彼女の周りには生命維持用の機械が所狭しと並んでいる。
「もう、わたしはそっちに行けそうにないよ」
わたしは椅子に座って彼女に微笑む。
「この病気ってね、普通は忘れたい記憶がなくなると治るんだってさ。わたしにはもう忘れたい記憶はないみたい」
眠る彼女の顔を見つめながら、わたしは彼女の笑顔を思い出す。
あの白い世界で穏やかに笑う彼女を。
「なんでわたしはずっとあそこにいられなかったのかな」
あそこは静かで綺麗で、嫌なことは何もない。だって彼女がいてくれた。
彼女がいれば、わたしはひとりじゃないのに。
「ここだと、わたしはひとりぼっちだよ」
ふいに何か音が聞こえてわたしは窓に視線を向ける。
雨だ。
大粒の雨が窓を叩きつけている。その向こうに広がるのは灰色の世界。
「あの白い世界で、あんたはわたしのことを忘れちゃったのかな」
それでもわたしは彼女のことを忘れていない。忘れなかった。何度もあの世界へ行って彼女と話していた。その記憶すらも忘れていないのだから。
だったら、もしかしたら彼女だって……。
「早く戻っておいで。またくだらない話してさ。二人で笑おうよ」
彼女に何があったのかわからない。彼女がどうして自分のことを忘れていったのか、その理由だって知らない。興味もない。だってわたしが知っているのは自分のことを失っていく彼女だけだ。
そんな彼女の温もりをわたしは知っている。
彼女の手の柔らかさ。
細さ。
頼りなさ。
「わたしがずっと一緒にいるよ」
そう伝えたかったのに。
あと一度、あの世界へ行くことができれば伝えることができるのに。
「わたしさ、退院するんだってさ。わたしみたいに記憶を失った人を支援してくれる施設を国が用意してくれて、そこに行く。でも毎日会いに来るから」
今からの生活でどんな人と出会い、どんな記憶が作られていこうとも、ここへ彼女に会いに来る。
もうあの世界に行くことはできないから。
「面会時間終了です」
病室に無機質なアナウンスが響く。わたしはため息を吐いて立ち上がると彼女の頬に触れた。温かい。
「またね」
わたしは笑みを浮かべて彼女に別れを告げる。いつものように。
そして彼女を待ち続けるのだ。
雨が降り続く、この灰色の世界で。
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