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灰色の世界で君を待つ
彼女と初めて会ったのはいつのことだっただろう。
半年前か一年前か、それよりもっと昔だろうか。はっきりと覚えていることは、この灰色の壁に囲まれた病室で彼女と隣同士のベッドだったということ。
狭い病室に敷き詰められるようにして押し込まれた八つのベッド。軽症者用の病室はすでに満床。それでも運ばれてくる症状者は増える一方で、こうして定員を超えてベッドが押し込まれていた。
わたしがここに運ばれてきたのがいつだったのか覚えてはいないが、目を冷ましたときには見慣れた色ではない、灰色の天井だった。
訳も分からないまま身体を起こすと部屋には眠り続ける少女たちしかいない。不安しかなかったわたしの救いになったのは、わたしから少し遅れて目を覚ました彼女だった。
「……幽霊?」
ぼんやりとした表情でわたしを見つめた彼女は、まだ夢を見ているかのような声でそう言った。
「いや、誰がだよ」
思わず声を出したがなぜか掠れてしまい、わたしは思わず喉に手をやる。そんなわたしを横目に彼女は欠伸をしながら「君、何回目?」と聞いてきた。言われた意味がわからず、わたしは眉を寄せる。
「――その様子だと初めてかな。うん。そうだ。だってそのベッドにいたのは君じゃなかったはず」
なにやら一人で納得している様子の彼女は大きく伸びをして部屋の入り口に視線を向けた。そこには電子時計が設置されていた。
「三日か……」
「なにが?」
何度か咳払いをしてようやく喉の調子が戻ってきたわたしは訊ねる。彼女は無表情にわたしを見ると「詳しくは医者から聞いた方がいいんじゃない?」と枕元に手を伸ばしてナースコールを押した。
十数秒後にバタバタと現れた看護師は、なぜかコールボタンを押した彼女ではなく、わたしを見て納得したように「歩けますか?」と手を伸ばしてきた。
「え、あの……?」
「歩けないようでしたら車椅子がありますので――」
「あ、いえ! 大丈夫です。歩けます」
歩けないわけがない。怪我をしているわけでもないし病気なわけでもないのだから。
わたしはベッドから足を下ろして立ち上がる。なんとなく力が入らない感じはするが問題はない。
わたしが立ち上がったのを見ると、看護師は「では、こちらへ」とまるで介護でもするようにわたしの腕を取って歩き出した。
「一人でも大丈夫なので」
「ええ。でも二日ですから、念のため」
真剣な顔で看護師は言う。
「二日……?」
さっき彼女は三日と言っていた。何のことだろう。廊下へと連れて行かれながらわたしは振り返る。その先で、彼女はぼんやりとした様子でどこか宙を見つめていた。
連れて行かれた先は診察室だった。そこで医師から『忘却眠り病』という病気について説明を受けた。
昨年から若者の間で流行りだした病気らしく、一度眠りにつくと何日も起きなくなってしまうのだという。軽症者は数日程度で目を覚ますが、必ず記憶の一部を失っているそうだ。重症者になると眠りについたまま一度も目覚めない。
この病気を発症したものは専用病棟に入院して経過観察、および症例研究を行うよう国の方針で決まったらしい。
今のところ発症要因も不明であるこの病気のことは世間でも毎日のように報道されており、知らない者はいないはず。それなのにわたしの記憶からはこの病気のことだけがぽっかりと穴が空いたかのように消え去っていた。
「――ということは、あなたが失ったのはこの病気についての記憶ということになりますね」
淡々とした口調で医師は言うとタブレットにデータを打ち込んでいく。眠気はないか、身体に違和感はないか、病気のこと以外に思い出せないことはないかと聞かれたが、とくに何もない。わたしが思うに、わたしは健康そのものだ。
そう答えると医師は「国の方針ですので、しばらくは入院してください」と素っ気ない口調で言ってわたしを元の病室へ戻すよう看護師に指示を出した。
言われた通りに大人しく病室へ戻ると、そこは香ばしい香りが充満していた。トーストの香りだ。
「あ、おかえり」
隣のベッドの彼女はそう言うと「君の分もあるよ。冷めないうちに食べたら?」とわたしのベッドへ視線を向ける。そこには彼女が食べているのと同じトーストと目玉焼きとサラダ、ゼリーと牛乳という健康的な朝食が用意されていた。
「朝食……。あれ、今何時だっけ」
ベッドに向かいながら呟く。
「朝の九時だよ」
呟いた言葉に彼女が答えた。彼女はすでに半分ほど食べ終えているようだ。
「病院にしては遅めの朝食」
「いつ起きるかわからないわたしたちの朝食が出てくるだけマシ」
「……たしかに」
わたしは納得するとベッドに座って朝食を食べ始める。わたしは二日眠っていたらしいから久しぶりの食事のはず。しかし、胃が拒否することもなく普通に食べることができている。
「病気ってホントかな」
「ここにいるってことはホントでしょ。君は何を忘れたの?」
横を見ると彼女はゼリーの蓋を開けているところだった。トーストは中途半端に食べ残されている。
「病気のことだって言われたけど」
「病気……。わたしたちがかかってる、この病気?」
「そうらしい。でも、単純にわたしが知らなかっただけってこともあり得るよね?」
「あり得ないでしょ」
彼女はなかなか開かないらしいゼリーの蓋と格闘しながら淡々とした口調で言った。
「この病気のこと、去年あたりから毎日そこかしこで情報流れてるから」
「そうなの? でもわたし、テレビ見ないよ?」
「テレビだけじゃない。ネットニュース、SNSでは毎日のようにトレンド入り。そんな世の中でこの病気について一切見たことがないっていうのは無理がある」
「そうなんだ……」
では本当にそれを忘れてしまったということなのだろう。しかし、なぜその記憶だけを無くしてしまったのかわからない。
「――ぜんぜん開かない。たぶん一生開かない」
考えているとそんな声が聞こえてきて、わたしは彼女に手を差し出す。
「貸して」
受け取ったゼリーの蓋を開けてやりながら「あんたは何を忘れたの?」と訊ねる。
「色々」
考える様子もなく彼女はそう答えた。
「色々って、例えば?」
「最初に忘れたのは名前」
思わず手を止めて彼女の顔を見る。彼女は無表情にわたしの手元に視線を向けていた。
「あんた、名前わからないの?」
「……開いた?」
彼女の興味はわたしの手元にしかないようだ。わたしは力を入れて蓋を剥がすと彼女に渡す。
「名前は?」
「さあ。知らない」
「知らないって……」
「あ、間違えたかな。知らないっていうか興味ない」
「なにそれ」
理解ができない。わたしはゼリーを美味しそうに食べる彼女を見つめた。
「……さっき最初って言ってたけど、他にも忘れたことあるの?」
「家族、家の住所、子供の頃のこと」
「そんなに――」
「あ、あと今回は友達のことかな。高校行って誰かと話してた記憶はあるけどそれが誰かわからないから」
淡々とした口調で彼女は言う。別に何でもないことのように。
「怖くないの?」
「何が?」
「だって、それ全部自分のことじゃん。名前もわからないなんてさ……」
「名前は覚えてないだけでわかってるよ。じゃないと入院してないと思う」
たしかに、とベッドヘッドに視線をやる。そこにはネームプレートがあるはずだ。しかし、なぜかそれは真っ白だった。わたしのベッドも同じだ。
「名前、ないじゃん」
「プライバシーがあるから、最近は名前書かないらしいよ」
「……なんていうの、名前」
「さあ。どうでもいいじゃん」
彼女はそう言うとカップの底に残ったゼリーをすくい上げて口に運んだ。そして満足そうに息を吐くと、まだ手つかずのわたしのゼリーへと視線を向ける。
「食べないの?」
「いや、違くない?」
「なにが」
「今の流れだと、わたしの名前聞くところじゃない?」
「別に興味ない」
「ひどくない?」
わたしが言うと彼女は不思議そうに首を傾げた。
「だって君は君だよ。この部屋でわたしが君と呼べば、それは君のこと。名前は必要ないじゃん」
「……まあ、いいや」
わたしはため息を吐きながら答えると蓋を開けたゼリーを彼女に差し出した。
「どうぞ」
「いいの?」
「ゼリー嫌いだから」
「やった!」
無邪気に声を上げてカップを受け取った彼女は子供のように無垢で幸せそう。その笑顔はとても温かくて綺麗だった。しかし、そんな彼女の笑顔を見たのはそれきりだ。
彼女とはそれからよく雑談をしては笑い合った。だが、あんな笑顔を見ることはできなかった。
彼女はよく笑ったが、その笑顔の向こうには常に暗い陰が潜んでいた。彼女が眠りから目覚めるたび、その陰が笑顔を蝕んでいく。
いつか彼女が笑わなくなるのではないか。それが怖くてわたしは懸命に笑顔で話し続けた。その間にわたしも何度か眠りについては記憶を失っていったが、そんなことはどうでもよかった。わたしのそばにいてくれるのは彼女だけだったから。
わたしが病気のことの次に失っていった記憶は家族のことだった。父を忘れ、母を忘れ、祖父母を忘れ、そして兄妹のことも忘れた。だけど別に悲しくも怖くもない。わたしが目覚めてから一度も見舞いにすら来ない家族。つまりはその程度の関係だったのだろう。
いつだったか彼女が言っていた。この病気は精神的なストレスが発端となっているらしい、と。そして忘れていく記憶の優先順位は自分が忘れたいと思っていること。
わたしがどうして病気のことや家族のことを忘れていくのか、その理由すらも忘れてしまったようでわからない。きっと彼女もどうして自分のことを忘れていくのか、理由を覚えてはいないのだろう。
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