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奇跡の時間
驚いて無表情の私と、キーケースを受け取って気まずそうな彼。
数秒の時が流れたが、お互い動揺していて5分くらい経ったような感覚がした。
先に空気を変えてくれたのは、彼だった。
『せっかくなので、一緒に見ませんか?』
私は、さらに言葉を失った。
2人の沈黙を破った彼のセリフが、あまりに想定外すぎた。
せっかくだから?一緒に見るって?あなたと私が?今からそれぞれ見ようと思っていた夜景を?
私の思考はほぼ停止中なので、もう全然現実に追い付いていない。でも、これ以上気まずい空気にしてはならないという条件反射で、気付いたら無意識でこくこく頷いていたみたいだ。
彼は表情だけで「よかった」と伝わるような、少しほっとした笑顔を見せた。
まぶしい、実にまぶしい。
停止中の脳でもこれだけはハッキリわかる。まぶしすぎてクラクラする。きっかけがなんだろうと理由がなんだろうと、彼が笑ったのだ。私の推しが目の前で、笑った。1週間くらい何も食べなくても生きていけそうなエネルギーが、目の前で生まれた。
あぁ、本当にまぶしい、クラクラする……。
そのまま流れで微妙な距離を保ったまま、展望台行きのエレベーターへ乗る。実際急激に高度を上げるエレベーターだが、そもそも彼にクラクラしている私はもう貧血寸前。最上階まで少し時間がかかるので、少し落ち着こうと目を閉じた。
結果、1ミリも落ち着かない。
目を閉じるとなおさら脳内に強く
「なにこれ?なにこの状況?なんなの?」
という疑問符しか浮かばない。逆にパニックに陥りそうなので、現実と向き合うことにした。目を開けて見ても、エレベーターの階数表示を見つめる彼がいる。
あぁ、夢じゃない。
「展望台デッキです」
機械的なお姉さんのアナウンスと共に、エレベーターのドアが開く。
人の流れで自然と私たちもドアの外へ。
ーーおっと!
さっきからクラクラしていた私が、ついに物理的につまずいた。と、同時に手首とひじの間あたりを彼がとっさに掴んでくれた。
は、反射神経がよい……!
私が謎の天然ヲタク目線で感動している間に彼はすぐパッと手を離し、ナチュラルに
『大丈夫?』
と聞いてくれたので、またしても私はこくこくとうなずいた。
そしてまた、2人して人の流れに沿ってなんとなく人の間隔が空いている窓辺に落ち着いた。
それから私たちは、夜景を見下ろしながら
ぽつりぽつりと誰でもできる会話をした。
そう、私たちじゃなければできない話は明らかにそこにあるのに、しなかった。
本当に当たり障りのない話ばかりした。
私がここへ来たのは初めてだとか、
星も見るのが好きだとか、
でも数字も嫌いじゃないとか、
水族館ではイルカよりペンギン派だとか、
パンが好きだけど、朝はパンだとすぐおなかすいちゃうとか。
彼が1人でこんなところへ来ている時点で、なんかちょっと、疲れてるのかな?
なんて、想像に容易いことだった。
そのうえ、私のバッグにもグッズが付いている事を知ってか知らずか、話し相手がほしいようだった。
やっぱりね、そんなの疲れてるに決まってる。私は自信を持って言いきれる程に、にわかなファンではない。ガチのファンだ。
推しが疲れている事を察した以上、ファンとしてそれ以上の心労なんてかけたくない。
むしろ、もし彼が私のグッズに気付いているなら、そのうえで気を遣わずに話してほしい。
いくらでも聞くから、少しでも楽になって、癒されて日常へ戻ってほしい。
例え、触れるべきじゃないと悟ったことで
私が「1番好きなのはあなたです」と言えないとしても…
結局、終始お互いのそれには触れずにたわいもない話をし続けた私たち。
べつにどちらかが言い出せば、
「ファンです」「ありがとう」で済む。
でも最初こそ探り探りだったけれど、途中からはお互いに「これは触れないな」という謎の信頼関係が生まれた状態で話していた。
もし、だからこそ話しやすいと思ってくれていたのならば、私はファンとして本望だ。
私だって、今日のこの奇跡の時間に、想いは伝えられなくても充分に癒されている。
『なんか元気出ました、ありがとう』
彼は最終的にそう言ってくれた。
彼を想うファンとして、任務完了。
まだ空が暗いうちに、2人はそれぞれの帰路へと分かれる。
少し離れてから、ファンとしてではなく私個人として、あと一目でも記憶に残したいという欲が出てしまい、一度振り返った。
すると、彼もたまたま振り返った。
この距離離れていれば、もういいかな?
私は思いきり手を振り、「頑張ってね!!」
という気持ちをジェスチャーで伝えた。
彼も頭の上に両腕を上げて、丸のジェスチャーで返してくれた。
夏の夜の、奇跡の時間は終了した。
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