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幸せの代償
もう本当に、無意識の域で帰宅してきた。
どこをどう歩いて帰ってきたか記憶がない。
‘ファンとして’という体裁を守ったからこそ、無事だった。
家にたどり着き、靴を脱ぎ、部屋の奥でペタンと座り込んでしまった。そこから動けない。一気にさっきまで必死に抑え込んでいた、私個人の気持ちが溢れ出して襲い掛かかる。
ファンとして、最善の行動をとってきた。
でも、思い返してしまう。
私に声を掛けられて戸惑う彼。
私だけに向けられた視線。
まさかの、私に話しかける彼。
とっさに腕を掴んでくれた感触。
少しずつ緊張がとけていく過程。
最後には、私と過ごした時間で元気になって笑ってくれた彼。
さっき背を向けて歩き出した私たちが、再び会うことは、二度とない。
なぜなら、私は彼のファンだから。
彼がステージで輝く姿が好きだ。ステージ以外でも様々な表情を見せてくれる彼が好きだ。その他大勢の、ファンと同じように。独り占めなんて、めっそうもない。彼はみんなの生きる光だから。
そう思ってサヨナラしてきたのに、私の部屋にはたくさんの彼がいる。きのうまでの私にとって元気の源でしかなかった彼なのに。
ポスターやカード、CDジャケット…
部屋の中の彼と目が合うと、胸が痛い。
私だけに向けられた笑顔を知ってしまった。掴まれた腕で体温を感じてしまった。たった数時間でも、隣にいた。
それは、続くなら嬉しいはずの事ばかり。
でも二度とやってこない事ばかり。
彼を数時間だけ知ってしまった。
それなのに、始まりとともに終わる。
この気持ちをどこへ持っていけばいい?
だって……確かに私たちの時間は、存在したのに。
部屋の壁のポスターを見て、涙が溢れる。
知りたくなかったなんて、軽率には言いたくない。会えて嬉しかった自分と、確かに隣にいた時間を否定したくない。
じゃあなぜ出会ったの?
なぜ私だったの?なぜ今だったの?
否定したくないかわりに、ポスターの彼を質問攻めにしてしまう。
返事など、返ってこない。
まさか彼と出会うことも、こんな気持ちになることも、きのうまでの私には想像もできなかった。
明日から、頑張ってもとのファンに戻るから。だから今夜だけ、あなたの歌声を聴きながら、涙が尽きるまで泣いてもいいですか?
たったひと晩だけ、
現実世界のあなたに恋した私を許して……
皮肉なことに、私の部屋の窓からは遠くに少しそのタワーが見える。
明日から、どんな気持ちでこの街で過ごせばいいの?
街を歩けば彼の歌声が聴こえる、見上げればあのタワーが見守る、どこを歩いても彼の看板が目に入る、この街で。
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