D-3284

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 私が初めにそれに気付いたのは、通勤途中の電車の中であった。六月某日午前七時過ぎ、東京方面へ向かうとある路線にて。満員御礼と言わんばかりの車内で私は乗客同士とおしくらまんじゅうで戦っていた。社会人歴四年ともなれば、もう骨身に染みて濃厚な出汁でも取れるのではないかと思えるくらい慣れた場面だったのだが、その日は特別な日だった。特別に気味が悪く、悪夢の如き日々の始まりだった。  私がいた場所は後方車両における前後二ヶ所の出入り口の後ろ側付近。途中から乗車した身分に座るための席が与えられるわけがなく、何とか扉付近の吊革を掴むことができた私は風に吹かれた雑草のように揺られながら目的地への到着を待っていた。  このような状況の時、皆は視線をどこへ向けているだろう。ちなみに私は主に窓の外を眺めている派閥に属する。この日、私の周りでは半分がスマートフォンの画面を見ており、それよりは少ないが単語帳や文庫本に目を落としている者もいる。あとは瞼を閉じているだけなのか寝ているのかわからない者といった分布となっていた。全体の九割が耳にイヤホンをしているが、いつの間にか有線よりワイヤレスを使っている人口が多くなっているのが最近の気付きだ。だが私の注目を強奪したのは他人の可愛いスマートフォンケースでも車窓から見える「パスタで運転はできません!」という意味の分からないフレーズを掲げる看板でもない。  それは私から見て右斜め前にいるサラリーマンが背負うカバンにいた。  人ひとり分離れた距離にいるサラリーマンは三十代の後半と思われる、やや白髪が混じった短髪と顔のシワと染みが特徴的な男性。厚手の紺色のスーツはこの時期になると暑そうなものだが、車内は冷房がガンガンに効いているので額に汗の雫を浮かべることもない。私もパンツスーツの上は白い薄手のブラウスで、ジャケットはつり革を掴んでいない方の腕にかかっている。無表情の彼の片手はつり革を掴み、空いたもう片方の手はスマートフォンを操作していた。  だが、私が気になっているのは厳密にいうと彼ではない。サラリーマンの背にあるのは黒い無地のビジネスリュックで、右下に見覚えのないブランド名が刻印されたタグが付いている。厚揚げのような形状のそれは縦の長さに対して厚みはそれほどでもないにせよ、満員電車の中なのだから荷物は足元に置いておけと心の中で悪態を吐いていた。しかし真に気になっているのは、リュックの側面にある。  リュックの口は左右一対のファスナーで開閉するタイプだった。私から見て右側の側面で口が閉まっているのだが、ファスナー同士の間にはわずかながらの隙間があった。人間の指が何本か入るくらいなので、中から物が落ちてしまうような大きさではないものの、内容物の端が見え隠れするくらいのものだ。初めにそれに気付いた際は「隙間があるな」以上の感想を持たず、五秒もすれば別の物事に興味が移るはずだった。そのはずが、リュックの隙間から見えたあるものから私の視線は動かすことができずにいた。  わずかな隙間の闇に見えるもの。
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