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2020年3月
いちど結婚という言葉がでてしまうと、もうそれ以外は考えられなくなってしまった。玲奈の気持は、どんどん結婚にむかって加速している。悠人にいたっては、具体的なスケジュールまで立てはじめた。
「ゴールデンウイークに、あいさつに行けばいいと思うんだ。先に郡山で降りてうちに寄って、それから仙台に行けばいいよな」
「泊まるの?」
「日帰り、もしくはホテルに泊まる。いきなり実家に泊まるのいやでしょ」
「いやっていうか、緊張してどうしたらいいかわかんないな」
「ね。ホテルのほうが気楽だろ」
「うん、そうね」
「そしたら、式場さがして予約して。秋には結婚式ができるかな」
「……結婚式か――」
玲奈の目は、宙をさまよう。
「ぜんぜん想像できない……」
「で、問題は場所なんだよね。東京でやるか、郡山でやるか、仙台でやるか」
悠人の話は進んでいく。
「あっ、そうか。会社とともだちは東京だし、親戚のことを考えたら、地元のほうがいいもんね」
「そうなんだよ。玲奈の一番遠い親戚ってどこ?」
「名古屋かな」
「うちは新潟なんだよ。いずれ、誰かが移動しなきゃいけないね。親とも相談しないと」
「……いろいろ面倒なのね」
玲奈の声がよほど面倒そうに聞こえたのか、悠人はあわてた。
「徐々に決めていけばいいわけだしね。全部一気にやるわけじゃないから」
「そうね。ゼクシィ買ってこようかな」
玲奈は、帰り道会社を出てから電車に乗るまでの間、母に電話する。毎日ではないけれど、週三回ほど。とりとめのない話だけれど、母は相槌をうちながら聞いてくれる。
会社で嫌なことがあっても、母に聞いてもらうと気持ちも落ち着いた。
「結婚しようっていわれた」
「ええっ! 早くない?」
予想通りの反応だ。母に彼氏ができたと話したのは、一月の半ばくらいだった。それから二か月しかたっていない。
「そんなに急がなくてもいいじゃない」
「でもね、二人で住んだほうがお金もかからないし、部屋もいいところに住めるのよ」
「そんな理由で結婚するの?」
「いや、ずっといっしょにいたいっていってくれたわよ」
「それはあたりまえでしょう。でも、いまはつき合いはじめで気持ちが盛り上がってるかもしれないけど、来年くらいになって、落ち着いたら変わるかもしれないでしょ。もうすこし待ったら?」
「それにさ、三十才までに子どもを産むならもう結婚考えないと」
「それはそうねぇ」
母が玲奈を産んだのは、三十二才のときだ。産後、回復が遅くてつらかったといっていた。体が回復しないまま、まとまった睡眠時間もとれずに、赤ん坊の世話に明け暮れた。睡眠不足と疲労はどんどんたまり、精神的にも追い詰められたという。
自分のために母がそんなにつらい思いをしたのかと思えば、なんだか申し訳ない気持ちになるのだが、そうではないと母はいう。子育てに対する自分の認識が甘かったのだそうだ。
本で読んだり、子育て教室で勉強したこととはちがうことが、たくさん起こったのだという。
赤ちゃんが泣いたら、おむつをかえて授乳すれば泣きやむと書いてあったのに、実際には泣きやまない。どうしていいのかわからずに、ただ泣き続けるわが子を抱いてあやし続けた。
「本のとおりに、子どもが育つわけじゃないのにね」
と、母はいった。
「いまはいろいろな理由で高齢出産も多いけど、やっぱり若いうちに産むものなのよ。生物学的にね」
それを聞いた玲奈は、なるほどと思ったのだ。経験者がいうのだからまちがいないだろう。
そして、やはり母はそれを引き合いに出されるとうーん、とうなってしまった。
「ゴールデンウイークに二人であいさつに行こうと思ってるの」
「わかった。おとうさんにいっておく」
ちょうど電車が来たので、じゃあねと電話を切って乗りこんだ。
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