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2020年8月
感染が拡大している。このままではお盆の帰省もあやしい。さすがに玲奈も焦ってきた。焦ってみたところで、自分でどうにかなる問題でもない。
悠人はというと、もはや焦りを突き抜けて悟りの境地である。
「なるようになるさ」
と、シャンソンの歌詞のようなことをいい出す始末だ。次に何をいい出すのかと、それはそれでおそろしい。結局二人で手をこまねいていた。
打開策がなくても、仕事はある。玲奈の会社では社員が半分ずつ出社している状態だ。
出社時間は、九時半と通常より少し遅い。通勤ラッシュを避けるためだ。玲奈が会社に着いたときには、すでに企画開発課長の真田の姿があった。
「あれっ? 課長、もういいんですか」
「ああ、だいじょうぶだよ。留守の間悪かったね」
真田課長の父が、新型ウィルスに感染して亡くなった。葬儀のために三日ほど休みをとっていたのだ。
「とんでもないです。お悔やみ申し上げます」
「ああ、ありがとう」
と真田課長は頭を下げた。
「いやー、まいったよ。陽性だって連絡があってから三日で亡くなったんだ。高齢者だから仕方ないっちゃ仕方ないんだけど」
死はいつでもすぐそこに潜んでいる。ふだんは巧妙に隠れているくせに、なにかのはずみにひょいっと顔を出すのだ。
そして
「おまえたちの命など、わたしの匙加減ひとつなのだ」
とあざ笑う。
あまりにも身近に現れた死に、玲奈は背筋が粟立つ思いだった。
震災当時、あちこちに乱雑にばらまかれた死が恐ろしかった。
(いやだな。またあんなふうにならないといいけど)
玲奈の会社では、感染者は出ていないが、悠人の会社では三人出たといっていた。フロアがちがうので悠人は濃厚接触者にはあてはまらなかった。
そのほかに、濃厚接触者に該当して、自宅待機している社員も何人かいるらしい。
いつどこで感染するかわからない。じわじわと侵食されていく。そんな空気が漂っていた。
「うちの親は、老人施設に預けていたんだよ。そこで集団感染したんだな。免疫の弱った高齢者ばかりだから、あっというまだよ」
パソコンを立ち上げながら課長がいった。
「安心して暮らせるように、預けたのにな。逆効果だったとは」
「不測の事態ですもん。仕方ないですよ」
課長は看取ることができなかったのだ。それを悔いている。ことば尻に表れていた。それを思いやることばが、玲奈は見つけられなかった。
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