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第一章 優しき桜の精
二月の午後。束の間寒さ和らぎ、小春めくひととき。
麓の街に響く、学校帰りの子供達の足音。それを横目に微睡む野良猫が、にゃあと呑気な声をあげる。
いつもと何ら変わらぬそんな光景を、彼は今日も、山の上から眺めていた。
まだ幼さの残る顔立ち。一見すると少年のようだが、彼は見た目よりも悠かに長い時を生きている。
街を見下ろす山の中間部に建てられた、古めかしい小さな神社。
その境内に植えられた大きな桜の木の上が、いつもの彼の定位置だ。
そしてその定位置から、慣れ親しんだ街の営みを眺めるのが、いつもの彼の日課でもある。
地方の山間に位置する小さな街を、田舎と言ってしまえばそれまでたが、彼はこの街が育ってくるのをずっと一緒に見てきた。
そう、千年の昔から、ずっと。
引き戸の開く音に、彼はふと目をやる。
木造の社の中から、小柄な女性が出てくるところだった。
歳は六十半ば程。白髪の混じった髪を一つにまとめ、和装に身を包んだ姿は、質素だがどこか品がある。
さて、これまたよくよく見知ったその女性に対し、彼は柔らかな笑みを浮かべて声を掛ける。
「行ってらっしゃい。神主さん」
そう言って送り出したものの、その声は彼女には届いていない。もちろん、彼も承知の上だ。
と。
「わぁ――!!放せー!!」
甲高い子供の声が境内に響く。
見れば、立派な白髭を蓄えた老人が、小さな子供を社から引きずり出していた。
「放すことあるか、このイタズラ坊主が」
老人はその細い腕からは想像もつかないような力で、放せ放せと暴れる子供を押さえ込む。
そんな様子に、桜の少年はまた笑みを深めた。
「箒のお爺さん。そんなに怒って、今日はどうしたの?」
そう言って、二人の手前にひょいと降り立つ。
「やや、これはカヤ殿。どうもこうも、こやつがまた神主殿の目を盗んで、供え物をつまみ食いしようとしたんじゃわい」
老人は"箒のお爺さん"こと、この神社に宿る箒神だ。
左手には、長年の相棒である竹箒。
そして右手に抓まれているのは、最近ここに住み着いたばかりの座敷童子である。
「おい、おまえ!笑ってないで、おいらを助けてくれよ!」
「これ!千年のククノチ様に向かって何という口の利き方じゃ」
千年のククノチ――"句句廼馳"とは、木々に宿る神の呼称。
すなわち、この千年桜に宿る桜の精というのが、少年の正体という訳だ。
「参ったなぁ。僕の名前は"カヤ"だって、こないだ自己紹介したろ?」
「そんなこと知るか!大体なんで桜の精に名前なんてついてんだよ。人間じゃあるまいし」
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