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序章 始まりの桜
時は平安。
京はずれの山中、夕暮れ時を迎えた小さな屋敷に、慌ただしい足音と呼び声がこだまする。
「姫様、姫様!」
侍女と思しき初老の女性が、縁側から履き物の上に飛び降りると、躓きそうになりながら庭へと走る。
「姫様!またここにいらっしゃったのですか」
庭の片隅にしゃがみ込む少女を見つけると、老女はほっと胸をなでおろした。
小さな背中の横に並んで、老女も身を屈める。
「今年はもう、お花は咲きそうにありませんね。」
老女の言葉に、少女はしょんぼりと俯く。
年は十を少し過ぎた頃。まだ裳着も済んでいないだろう。
薄色の袿に、夕陽で紅く透けた黒髪がよく映える。
二人の目線の先には、背丈二尺ほどの小さな桜があった。
周囲の山々には、既に新緑が色を差す時節頃。
そんな中この小さな桜は、とうとう蕾をつける気配もないまま、この春を終えようとしていた。
「…お父さまがおっしゃったの。この桜の花が咲く頃に、おむかえに来てくださるって。」
呟いて、少女は桜に手を伸ばす。
その細い枝に芽吹く透き通るような新芽を、小さな白い手がそっと撫でる。
そんな少女の肩を、老女の手がそっと包み込んだ。
「もうじき、日が暮れますよ。お部屋に戻りましょう」
促されて、少女は渋々立ち上がり、二つの影は屋敷の中へと消えていった。
翌年の春、小さな桜はようやく、一輪の花を咲かせる。
それを誰より心待ちにしていた少女はもう、何処にもいないことなど、知る由もないままに。
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