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「なにそれ」 「ゴム手袋。手が滑って力入らなかったら嫌だからね」 「気合入ってるね」 「あんな顔赤くして言われたら気合も入っちゃうよ」 「うるさい」 夜の10時。私たちは昨日の川に集合した。今日こそは魚を釣ってあげようと気合も十分だ。外はいつものように蒸し暑く、水のせせらぎだけが唯一の涼みだ。 慣れた手つきで少年が釣り竿を投げる。水面にはプカプカとウキが浮いている。ウキから目を離さないように神経を尖らせる。だんだんと体全体に力が入っていく。 「どうせまだこないよ。この時間は魚少ないから」 「ふうん、詳しいね。いつからここで釣りしてるの?」 「分かんない」 「ねえ。それくらいいいじゃん」 「ほんとに分かんない」 少年は口を力強く結んでいる。嘘ではなさそうだ。 「ならいいけど」 気持ちと目線をウキへ持っていく。こういう時少年の詳しい事情などは聞かない方がいいのだろうか。今聞いても、少年との距離が離れていく気がしてならない。何をしたらいいんだろう。萌香だったら、明るく、それでいて相手を傷つけずに、上手くこなすんだろうな。 「お父さんが早く帰ってくるようになった」 急なお父さんという言葉と、少年の重々しいトーンに一瞬ドキッとさせられた。 「お父さん?」 「お父さんは帰ってくると、すぐ妹のことを部屋に閉じ込めるんだ。それでおれも遊べるのかと思って近づいたら、邪魔だからどっか行ってろって」 「それで釣りを?」 「うん。暇つぶしできるのがこれしかなくて」 「そっか。このことお母さんは何も言ってないの?」 「お母さんはいない。2年前に死んだ。だからお父さんの言うことは聞かないといけない。お父さんのおかげで、生活できてるから」 そう言いながら、悔しそうな表情を浮かべている彼になんて声をかけたらいいのか、私は未だに言葉が見つかっていなかった。 「お父さんと何してたか妹に聞いても、何も答えてくれない。だから、何してるか分かんないけど、だけど、妹は最近元気じゃなくなってる気がする。だから、魚釣って見せてあげたい」 「魚、好きなの?」 「お母さんが好きで、昔から2人でよく図鑑見てた。おれが釣った魚だって言ったら、きっと妹喜ぶと思う」 今の彼に、サークル長でも学級委員長でもない、私がかけられる言葉なんて1つしかない。 「よし、じゃあ今日絶対釣ろうね!大物釣っちゃおうよ、ほらカジキマグロとか!」 昨日会ったばかりのくせに、ズケズケと人の家庭の事情に足を踏み入れることなんて、私にはできない。お父さんと妹のことだって、いくらでも嫌な想像はつく。でも今、この少年はそのうねりにうねった頭の中で、魚を釣って妹を喜ばせるという目的を見つけて動いているのだ。覚悟を決めた少年の大切な機会を私が奪うことなどあってはならない。 小学4年生の頃の私は、友達がいなかった。退屈で窮屈な学校生活に悩まされていた私は、そのまま悩み続けた。悩み続けた結果、1つの方法を見つけた。私は学級委員長になった。まわりからは「委員長」と呼ばれるようになり、友達もできた。私の人生はそこから、順調を保っている。 私は、椅子に座ることを覚えた。 「晴」という椅子に座っていても、ダメだといことに気づいたのだ。そこで私は「委員長」という椅子に座り、景色を変えた。 「生徒会長」「班長」「部長」「サークル長」 私は「晴」という椅子から降り、 様々な椅子を乗り継いでここまでやってきた。 今の少年は、「兄」という椅子を守りきれるかどうかという瀬戸際に立たされている。自分の力で椅子を確実なものにするという感覚は、今後の人生でとても大切になってくる、と私は思っている。今の私にできるのは、少年の背中に立ち、支えてあげることだけだ。 「カジキマグロなんかいないし」 「いいの!それくらいの意気込みってことでしょ!カジキマグロだって釣れ…あっ!」 ウキが沈んだ。魚だ。魚が、ヒットした。 「きたっ」 少年は勢いよく釣竿を引き、糸を巻く。手袋に力を入れて、私も一緒に釣り竿を支える。 「絶対離さないからね!」 「うん、絶対」 魚の揺れに耐えながら、ゆっくりと糸を巻いていく。ある程度の糸を巻き切り、魚が目で確認できる距離までやってきた。 「網!」 少年の横に置いてあった網を素早く取り、魚を中にくぐらせる。 「よし、入った!」 水飛沫を顔に受けながら、手に力を入れ直し、暴れ回る魚を思い切り引き上げた。 「や、やったあ!」 「アユだ…しかもおっきい」 少年と目が合い、その喜びの勢いのまま抱きついた。良かった。本当に良かった。 「ちょっと、苦しいよ」 少年は「兄」の椅子を自分の力で手に入れた。 「妹さん、喜んでくれるといいね」 「うん、絶対喜ぶと思う」 少年はまた昨日のように顔を赤らめてモジモジすると思ったが、そんなことはなかった。 清々しい笑顔でこちらを振り向き、 「お姉さん。ありがとう」 はっきりとその言葉をぶつけられた。 久しぶりだ。「晴」の椅子に座った私が言葉をもらえるなんて。こんな私でも、もう一度、座ってみてもいいのだろうか。久しぶりに、そう思えた。 少年はアユの入ったクーラーボックスを抱え、私の方を振り返ることなく、駆け出して行った。その小さく、誇らしげな背中が勢いよく向きを変え、こちらに回転した。 「晴さん!またね!」 「またね!あれ、名前言ったっけ?」 手を大きく振り返した瞬間に、ゴム手袋をした自分の手が視界に入った。手の甲には「4ねん1くみ ハル」と大きくサインペンで書かれていた。 「これか…」 ゴム手袋を外し、タバコとライターを取り出そうとしたところで、少し止まる。 「もう吸わなくても大丈夫かな」 私は昔から、椅子がなくなると一気に不安がこみ上げてきた。そして毎回その不安をかき消すために隠れてタバコを吸っていた。 でも今の私がしようとしている行動には、 もうタバコは必要ない。 もう一度私は「晴」の椅子に座ってみる。 ありのままの自分がどこまでいけるのか、試してみたくなった。 ポケットの手を元に戻し、反対のポケットからスマートフォンを取り出す。そして、思いのままに言葉を打ち込む。 『睦月くん。明日ご飯行きませんか?』 やっぱり夏の夜は判断能力を鈍くさせる。文章も流れも唐突すぎた。 けど、不思議と後悔はしていない。「晴」の椅子に座り、「晴」として自ら動いたのだ。もし変な感じになったって、萌香に言えば明るくカバーしてくれるし、真矢くんに言えば楽しく笑い話に変えてくれる。 今の私なら大丈夫。 今からだって遅くない。  ゆっくりでいいから、 またこの夏の夜からはじめてみよう。 私は「サークル長」である以前に、 「晴」なのだから。
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