アラサーヴァージン杏華

1/1
25人が本棚に入れています
本棚に追加
/126ページ

アラサーヴァージン杏華

 きっとこれは悪夢よ。  そうに決まっている。私の二十九回目の誕生日だって言うのに。  それは波乱に満ちた幕開けだった。  なんと目を覚ましたのは見知らぬベッドの上。信じたくはないけど、ここはラブホだ。  しかも隣りにはヒゲづらの男がイビキをかいて寝ていやがる。気持ち良さそうに素性(すじょう)の知れぬゴリラーマンが。  いや、まったく知らないわけではないか。  彼に助けられた事は、かすかに覚えていた。  自称、『旅人』とかいう一風(いっぷう)変わった男だ。お前はルー大柴か。ッて、何が『旅人』だよ。そんな職業あって(たま)るか。  ああァ、ゴリラーマンのいびきがうるさい。鬱陶(うっとう)しい顔面に全盛時の武藤並の光速(フラッシング)エルボーをブチ込むぞ。  神様、お願い。  何でもしますからもう一度、ぐっすり寝たらで起こしてください。  じゃァ、おやすみなさい。……ッて、そんなに都合よくいくわけもなく。  ああァ、ヤバい。頭が痛い。気分も悪い。咽喉も渇いた。  ううゥ、いつ以来だろうか。完全な二日酔いだ。だけど……、だけどねえェ。  最悪の状態だが、取り急ぎ自己紹介をしておきましょう。  私の名前は宇沙美杏華(うさみキョウカ)。あまり言いたくないが今日から二十九歳。当然ながら独身よ。  既婚者が、見知らぬヒゲづら男とベッドの上で誕生日を迎えるなんて、むかし懐かしのトレンディドラマじゃないんだから。  職業、翻訳家兼通訳。今はミステリーも執筆中。一応、美人のエリートで通っている。  学歴も高く才色兼備の美女。  けれどもこれが男性諸氏には不評だ。  打席に入る前から予告敬遠って。おいおい、大谷翔平か。ふざけんなよ。こっちだってせっかく打席に入ったんだから、せめて勝負くらいしてこいよ。  まったくは寄って来ない。イケメンで、将来有望なエリート商社マンかと思ったら極度のマザコン男子だったり、ドMの外資系エリートだったりと。どんだけストライクゾーンを外すんだよ。  なんだ。私は歌舞伎町の女王様じゃないんだ。ドM男子に好かれたってちっとも嬉しくない。  やっと出来た彼氏も……。いや、その話をするにはアルコールの力を借りなきゃならない。とてもじゃないがシラフで話しをする気になれない。  取り敢えずこのシチュエーションをなんとかしなければ……。隣りで爆睡しているヒゲづら男と何かあったと思われたら、私の経歴に傷がつく。  取り立てて偉そうな事は言えないが、こっちはアラサーヴァージンなんだから。  意を決して、私は上半身を起こした。 「ううゥ、そうだ」  さっそく身体を調べた。 「うッわァ、最悪だァ」  なんと下着で寝ていたらしい。二十九歳のバースデー。今日のために買った特注のブラとパンツ。本来なら婚約者の彼氏に見せるはずが。このヒゲづら男に見せる気なんかなかったのに。  しかもラブホのベッドの上で。ヒゲづら男と一緒に仲良く枕を並べて。なんなの。私。  もしかして、このゴリラーマンとやっちゃったのか。初体験がヒゲづら男とかよ。  うッううゥ。人生最大の不覚。  あまりのアクシデントに私の脳内はキャパオーバー。遥かに許容範囲を越えている。パンク寸前だ。   とにかくパンツの中を確かめたが、なんとかセーフ。 「ふぅ」思わず安堵のため息をついた。  良かった。一応、最後の一線だけは守ったようだ。そりゃァそうだろう。  私だってそこまでバカじゃないって事よ。  辺りを見回すと鏡張りでゴージャスな装飾が施されている。天井には派手なシャンデリアが飾ってあった。  まさに『ザ・ラブホテル』と言うヤツだ。  初めてのラブホが、こんなヒゲづら男とだなんて。ああァ、頭が痛い。  自分のバカさ加減に嫌気が差した。 「なんで、よりにもよって、こんなヒゲづら男で正体不明の『旅人』のルーなんかと」  私はガンガン痛む頭を押さえて飛び起きた。このまま、ラブホテル(ここ)にいてはいけない。  なんとか一刻も早く逃げ出さなければ。  人生最大の失敗。それも二十九歳の誕生日に。  慌てて私は化粧室へ駆け込み、口を(ゆす)いで化粧を直し、ヒゲづら男を起こさぬよう静かに部屋を飛び出した。  スマホを見るとすでに九時を回っている。  ここはフリーランスの強み。OLだったら完全にアウトだった。  幸いタクシーで帰れる距離だ。なんで昨夜(きのう)は家に帰らなかったのだろう。いくら泥酔しててもラブホで一夜を明かすなんて最低だ。   すぐに自宅マンションへ戻り、ラフな部屋着に着替えてから風呂を沸かした。 「ううゥ」そうだ。  今朝の事は私の記憶から消し去ろう。それが正解だ。あんなヒゲづらの『旅人』なんか金輪際、会うことはないんだから。  そう。だって今日は私のバースデー。  二十代最後の誕生日よ。  さようなら。今朝までの私……。  今年こそ、絶対に良い女性(おんな)になってやるんだから。
/126ページ

最初のコメントを投稿しよう!