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アラサーヴァージン杏華
きっとこれは悪夢よ。
そうに決まっている。私の二十九回目の誕生日だって言うのに。
それは波乱に満ちた幕開けだった。
なんと目を覚ましたのは見知らぬベッドの上。信じたくはないけど、ここはラブホだ。
しかも隣りにはヒゲづらの男がイビキをかいて寝ていやがる。
気持ち良さそうに素性の知れぬゴリラーマンが。
いや、まったく知らないわけではないか。
彼に助けられた事は、かすかに覚えていた。
自称、『旅人』とかいう一風変わった男だ。
お前はルー大柴か。ッて、何が『旅人』だよ。そんな職業あって堪るか。
ああァ、ゴリラーマンのいびきがうるさい。鬱陶しい顔面に全盛時の武藤並の光速エルボーをブチ込むぞ。
神様、お願い。
何でもしますからもう一度、ぐっすり寝たらちゃんと自分のベッドで起こしてください。
じゃァ、おやすみなさい。……ッて、そんなに都合よくいくわけもなく。
ああァ、ヤバい。頭が痛い。気分も悪い。咽喉も渇いた。
ううゥ、いつ以来だろうか。完全な二日酔いだ。だけど……、だけどねえェ。
最悪の状態だが、取り急ぎ自己紹介をしておきましょう。
私の名前は宇沙美杏華。あまり言いたくないが今日から二十九歳。当然ながら独身よ。
既婚者が、見知らぬヒゲづら男とベッドの上で誕生日を迎えるなんて、むかし懐かしのトレンディドラマじゃないんだから。
職業、翻訳家兼通訳。今はミステリーも執筆中。一応、美人のエリートで通っている。
学歴も高く才色兼備の美女。
けれどもこれが男性諸氏にはすこぶる不評だ。
打席に入る前から予告敬遠って。おいおい、大谷翔平か。ふざけんなよ。こっちだってせっかく打席に入ったんだから、せめて勝負くらいしてこいよ。
まったくろくな男は寄って来ない。
イケメンで、将来有望なエリート商社マンかと思ったら極度のマザコン男子だったり、ドMの外資系エリートだったりと。
どんだけストライクゾーンを外すんだよ。
なんだ。私は歌舞伎町の女王様じゃないんだ。ドM男子に好かれたってちっとも嬉しくない。
やっと出来た彼氏も……。
いや、その話をするにはアルコールの力を借りなきゃならない。とてもじゃないがシラフで話しをする気になれない。
取り敢えずこのシチュエーションをなんとかしなければ……。
隣りで爆睡しているヒゲづら男と何かあったと思われたら、私の経歴に傷がつく。
取り立てて偉そうな事は言えないが、こっちはアラサーヴァージンなんだから。
意を決して、私は上半身を起こした。
「ううゥ、そうだ」
さっそく身体を調べた。
「うッわァ、最悪だァ」
なんと下着で寝ていたらしい。
二十九歳のバースデー。今日のために買った特注のブラとパンツ。
本来なら婚約者の彼氏に見せるはずが。
このヒゲづら男に見せる気なんかなかったのに。
しかもラブホのベッドの上で。ヒゲづら男と一緒に仲良く枕を並べて。なんなの。私。
もしかして、このゴリラーマンとやっちゃったのか。
初体験がヒゲづら男とかよ。
うッううゥ。人生最大の不覚。
あまりのアクシデントに私の脳内はキャパオーバー。遥かに許容範囲を越えている。パンク寸前だ。
とにかくパンツの中を確かめたが、なんとかセーフ。
「ふぅ」思わず安堵のため息をついた。
良かった。一応、最後の一線だけは守ったようだ。そりゃァそうだろう。
私だってそこまでバカじゃないって事よ。
辺りを見回すと鏡張りでゴージャスな装飾が施されている。天井には派手なシャンデリアが飾ってあった。
まさに『ザ・ラブホテル』と言うヤツだ。
初めてのラブホが、こんなヒゲづら男とだなんて。ああァ、頭が痛い。
自分のバカさ加減に嫌気が差した。
「なんで、よりにもよって、こんなヒゲづら男で正体不明の『旅人』のルーなんかと」
私はガンガン痛む頭を押さえて飛び起きた。このまま、ラブホテルにいてはいけない。
なんとか一刻も早く逃げ出さなければ。
人生最大の失敗。それも二十九歳の誕生日に。
慌てて私は化粧室へ駆け込み、口を濯いで化粧を直し、ヒゲづら男を起こさぬよう静かに部屋を飛び出した。
スマホを見るとすでに九時を回っている。
ここはフリーランスの強み。OLだったら完全にアウトだった。
幸いタクシーで帰れる距離だ。なんで昨夜は家に帰らなかったのだろう。
いくら泥酔しててもラブホで一夜を明かすなんて最低だ。
すぐに自宅マンションへ戻り、ラフな部屋着に着替えてから風呂を沸かした。
「ううゥ」そうだ。
今朝の事は私の記憶から消し去ろう。それが正解だ。あんなヒゲづらの『旅人』なんか金輪際、会うことはないんだから。
そう。だって今日は私のバースデー。
二十代最後の誕生日よ。
さようなら。今朝までの私……。
今年こそ、絶対に良い女性になってやるんだから。
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