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番外編⑦『始まりの日』早川視点
無駄に階層があるタワーマンションに、一人で暮らすには馬鹿みたいに広すぎる部屋。
本来なら楽しむべきであろう窓の景色すらもう見慣れたもので、何も心動かされない。
乱雑に散らばる本と原稿。
仮眠をとるためだけのソファー。
漫画を描くためだけの空間。
それが、俺の居場所だ。
日々なんて味気なく過ぎてゆく。
ただ淡々と、息をして、絵を描いて、眠るだけ。
けれど、こんな覚悟はできていなかった。
「……どういうことだよ?」
なんてことのない土曜日の昼。
けたたましく鳴り響いたのは、最近担当になった友人からの電話だった。
「だから、次の仕事が上手くいかなければ、契約を切るって上からのお達しよ。いくら実績があるからって、作品をうめない作家をいつまでも面倒みてられないって話」
容赦なく早口で捲し立てられ、話に頭が追いつかない。
急な話に呆然と立ち尽くしていれば、とどめの一言が突きつけられる。
「連載の枠が空くのが、BL誌だから。起死回生を狙うチャンスはこれで最後よ」
全く寝耳に水だった。
徐々に仕事が減っていることは分かっていた。けれど、俺の知らぬ間に首を切る話まででていたとは……。
友人のくせに、全然申し訳無さのカケラもなく電話は切られた。
こうして、穏やかな春のよき日。
俺は、途方にくれるしかなかった。
結局、その日は散々な休日となった。
芦名から速達が届いたかと思えば、中身は読み込まれたBL漫画とよく分からない縄。
何か食べようとしても、家政婦をクビにしたばかりで碌なものがない。
かといって仕事をしようと思いデスクに向かっても、何か描けるわけでもない。
もう何年も、何かを描く気力なんて湧かないのだ。
外を見れば、あっという間に空には夕日が浮かんでいた。
その憎たらしい程の眩しさに誘われる様にして、ふらりと散歩にでかける。
何も考えずに、ただ歩き続ける。
そうして、普段は来ないような寂れた公園まで辿り着いた時だった。
公園のベンチに、誰かがいた。
夕陽に照らされた艶やかな髪が目を惹き、何となく立ち止まる。
(子供か? 迷子……にしてはデカいな)
ベンチで頭を抱え蹲るようにしている姿は、泣いてる様にも見える。
面倒に思い通り過ぎようとしたが、聞こえた小さな呟きに、もう一度足が止まった。
「……これからどこに住めばいいんだよっ」
それは、行き場のない声だった。
隠しきれない孤独が、耳を支配する。
「ねぇ、君。どうしたの?」
気がつけば、声をかけていた。
けれども、顔も上げずに無視を決め込まれ、余計にこちらも意地になる。
「あれ? 聞こえてないのかな。おーい」
一向に此方を向かない頑固な子供に、ついにしゃがんで呼びかけた。
すると、小さな声が聞こえた。
「……うっせぇな。聞こえてる」
無愛想極まりないが、やっと聞けた声に、なぜか気分が良くなった。
「君、ちゅ……高校生? 何か困ってるの?」
「ちゅ? 高校生じゃねぇ。別に困ってない」
「そっか。でも、『これからどこに住めば~』って言ってたよね? さっき」
その言葉に、丸めた肩が揺れる。
「話、聞こうか?」
それは、ただの気まぐれだった。
つまらない人生のせいだろうか。
(もう、どうにでもなれ……)
半ばヤケのように、目の前の孤独な存在を放っておけなかった。
そして、彼が全てを話し終えた時。
ただの思いつきで、言ったのだ。
「絵のモデルになってくれない?」
そこで、ようやく俯いていた顔が上がった。
その瞳を覗いて、時が止まる。
青年は、泣いてなどいなかった。
絶望に打ちのめされていると思っていた黒い瞳は、僅かに空に残る澄んだ蒼を映していた。まるで宝石のように煌めくその様は、ただ、ひたすらにー……
ため息が出るほど、美しかった。
「だからさ、うちにおいでよ」
囁きが、微かに震えた。
詰まりそうになる言葉を誤魔化すように、彼の隣へと腰掛ける。
「僕の名前はねー……」
そう言いながら、細い木の枝を拾って地面へ文字を書き出した。
「早川 悠介。ぜーんぜん、怪しい人じゃないよ」
できる限り優しく語れば、小さな手が枝を受け取り、地面に名前を書き始めた。
「間宮 蒼大? いい名前だね」
「うん。早川さんもいい名前じゃん。俺が好きな漫画家さんと一緒」
その返事に、驚きが隠せずに固まる。
「君、早川悠介知ってるの? あんなの絵が綺麗なだけの少女漫画家なのに」
思わず零れた台詞に、空を映した瞳が感情を露わにした。
「んなことねぇよ。馬鹿にすんな」
それは、心からの声だった。
「絵も綺麗だけどさ、あの人のアクションシーンがカッケェから好きなんだよ」
彼は、怒っていた。
素性も知らぬ、顔も知らぬ、価値もない漫画家のために。
そう自覚した途端、全身が震えた。
「そうなんだ……。嬉しいよ、間宮くん」
「はぁ? なんであんたが喜んでんだよ」
「初めまして」
歓喜する心に身を任せて、挨拶と共に右手を差し出す。
「僕が、その早川悠介だよ」
握った手は、どこまでも温かかった。
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