あの日の約束

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 ホノルルマラソン、と言うキーワードに反応した僕は、咄嗟に手を挙げた。  隣に座っていた女性が手を挙げたのも、ほぼ同時だった。  僕が彼女の方へ視線を向けると、彼女も僕の方へ視線を向けてきた。  微笑みかけると、微笑が返って来る。  微笑が重なるまで、僕は彼女の存在に気づいてすらいなかった。  だから、特別に美人だったとか、目立つ存在だったとか、そう言う事はないのだと思う。だけどその時に魅せてくれた彼女の笑顔は、僕の心に焼きついた。それは、心の闇を明るく照らし出してくれるような、素敵な笑顔だった。  壇上の男性は、がんの宣告を受ける前も、闘病中も、治療が終わった後も、ずっとホノルルマラソンに出場し続け、連続で完走してきたと言った。彼の生き甲斐になっているそうだ。 「おれたちゃ、そんなにヤワじゃない!」  彼は拳を掲げてそう言い、スピーチを締めくくった。  彼の話に耳を傾けていた僕の胸が震えた。それは彼女も同じだった。  意気投合した僕達は、がんサバイバーの集いが終わった後、ファミリーレストランに入って、ドリンクを何杯もおかわりし、何時間も語り合った。  同じ大会を走った事がある者同士と言うのは、なぜだか話が弾む。  同じ苦しみ、同じ楽しさ、同じ達成感、同じ感動、走った者にしか分からない様々な思いを共有する事が出来るからだと思う。  僕が最後に走ったホノルルマラソンが、彼女にとって初めてのホノルルマラソンだった。スタート直後から大雨に見舞われて、散々な天候だったが、日が昇ると青空が現れ、ハワイカイに大きなダブルレインボーが掛かった。僕達はその時の事を振り返って懐かしんだ。  僕と彼女にはホノルルマラソン以外にも共有出来る事がある。それは、お互いががん患者であり、これから先、いつ終わるか分からない、ゴールの見えない闘いに挑まなければならない、と言う不安を抱えた者同士だと言う共通点だ。  これから同じように苦しみ、時に絶望し、その中から微かな希望を見出し、重たい足を無理やりにでも前へ進めて行かなければならない。一歩踏み出す事さえ困難な時だってあるだろう。でも彼女と共に歩めるのならば、それは試練なんかじゃなくて挑戦なんだと、受け止められる気がした。  僕達は連絡先を交換し合った。その中でひとつの約束が生まれた。五年後のホノルルマラソンを一緒に完走しよう。それが僕達の約束になったんだ。
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