部屋着に塩を

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 なんだったのか、思い出せない。  無理もない。  5年以上、昔の話だ。  それでも何だったのか思い出せないのは、やはり気持ちが悪い。  * * *  あの時、何かを約束した気がする。  でも覚えていない。  あの時は僕も気が動転していたし、人の言葉を頭に置けるような状況ではなかった。もちろんそれには、人の死に(たずさ)わるのは初めてだったということも理由に入る。  それでも、確かに彼女は痩せ細って上手く動かないであろう体から、無理矢理言葉を()り出していた。  ――どうしてしっかりと記憶しておかなかったのだろう。  今更になって、後悔が芽生えた。  感情の起伏やら雑多さやら、細かな部分を忘れてしまう要因は多々あったにせよ、忘れてしまうだなんて、僕はどうにかしている。  それも、こうして5年振りに覗いた当時の写真を見ないと約束の存在自体を忘れていただなんて、いくらなんでも度が過ぎていた。 「それ、あの人?」  一緒に荷物整理をしていたナスミさんが僕の肩口から顔を覗かせ、聞いてくる。  ――あの人。  一応は知り合いだったはずなのに、あの人呼ばわりするのは何だか寂しい気もしているが、それには僕にも責任があるので、仕方がないのかもしれない。  僕は正直に、そう、と答えた。 「まだ、好きなの?」  ナスミさんは少し小声で聞いてくる。  昔の恋人の話なんてあまりすべきではないし、したくない。それに結婚を控えたこの時期であれば尚更だ。しかし相手が故人であると何故だかそのあたりの重しに緩みがかかるのは、どういうことだろうか。  人の心は不思議なものだ、と僕は思った。
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