第11話 羽織

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第11話 羽織

 昼過ぎに屋敷を抜け出した。  すこし会って話をしてくるだけなら、夕刻には戻れるだろう。うまく行けば、みつからずに帰ってくることもできるかもしれない。  たとえ、そうでなくても構うものか。  季節のわりに暖かく良い日和だった。地味な羽織で目立たぬように覆っていたが、怜子は赤地に金色の鳥が縫いこまれた派手な着物姿だ。すこし恥ずかしそうにしながら、真紀のお気に入りだったのだと言う。  街を抜け、冬枯れの畦道を歩いていく。  すこし小腹が空いてきたから、日の当たる場所で芋をくった。庶民には親しまれても、お嬢様にはそうでもあるまいと思ったとおり、怜子は興味津々、おいしそうに食べてくれた。こいつを食うと、よく屁がでると教えてやったら、むくれていたが。  小高い丘にさしかかり、薄い林に入った。  不意に空が(かげ)り、どこかへ行っていた冬が帰ってきたかのように寒くなってきた。肌を刺す冷気が足を止めさせたのか、怜子が立ち止まった。どうかしたか尋ねると、 「わからない。行きたくない」 「真紀に会うんだろ?」 「ええ、わたしは会いたいわ。でも、真紀はわたしに会いたいかしら」 と応じていた。どうやら、真紀が(いとま)を出されてから何度か手紙も送っていたらしい。 「で、返事がないのか?」  聞かれてうなずく怜子の視線は、泥土にからみあう木立ちの影にむけられていた。  僕は考えるより早く手を差し出し、おずおずと持ちあげられた怜子の手を握った。たがいの冷たさを感じ、すぐ、ほんのりと暖かさを感じた。ふたりで歩きだしたとき、この手を離しさえしなければ、どこまででも歩いていけるような気がした。ふと見上げた空には昼間の月が浮かび、あるかなしかの姿が美しかった。  き、きれいだね。  つっかえ、つっかえ、ささやくような声がきこえた。怜子かと思っても、そんな様子もなく下を向いて黙々と歩いていた。なにかの気配を感じ、振り返ると、ずっと遠くに犬のような影があった。すいと木立ちに消えてしまう。  ばかばかしい、いまどき送り犬でもなかろうに。そう思って歩いていくうちに、どこからか甘い匂いが漂ってきた。それは、なにか内側に本当の匂いを隠しているような、体臭を打ち消すためのお香のような匂いだった。  いつのまにか頭上の月が消えていた。  全天を雲が覆い、昼間とは思えぬ暗さだ。(つな)いだ手を怜子が強く握りしめる。周囲には、いつかと同じ腐った溝川(どぶがわ)のような匂いが充満してきていた。  前後左右とも暗く、先を見通せない。薄い林が森と化し、小高い丘が山と化したかのようだ。後方には犬に似た影が付き従い、前方には五位の光じみた青白い光が灯っている。足下には、しゅるしゅると蛇行する音。  い、いらっしゃい。  (かす)かな声がして怜子の顔を見るも、首を振って自分ではないと応じていた。では、何者なのか。誰何(すいか)しようとしたとき、被せるように、 「前だけを見て。声を出しちゃだめ」 と、ちいさな声でいう。それを、何者かが捉えたに違いない。  い、いい声、いい声だね。  うれしそうな(ささや)きが聴こえて、ざわざわとした気配が近寄ってくる。怜子が手を離して、すっと立ち止まった。その肩を何者かが掴んだようだった。警告も忘れて振り返った僕は、何者かと目をあわせていた。暗く、ぽっかりと空いた無明(むみょう)のものがこちらをみていた。それは怜子から僕に関心を向けようとして、しかし、ふわりと舞いあがった布切れが互いの視線をさえぎる。  怜子の羽織だった。  地味な羽織が取り払われたあとには、まるで祝い事のような真っ赤な着物地に、金色の鳥模様が羽ばたいている。  と、思い出したような、やはりいま感じたかのような倒錯した記憶が眼前をながれた。羽織のしたに隠されていたのは真紀が好きな着物、結局は、だから怜子が好きな着物だ。  宙を舞っていた羽織が、くしゃりくしゃりと握り潰されるように引きずり込まれていく。  はっとして怜子の手を取り、駆け出した。  火のように赤い着物は小夜衣(さよぎぬ)の火を思わせるほど華があり、ごうごうと燃え盛るようだ。その後を、おうおうと泣くような呻くような声が追いかけてきていた。  走って走って、走り続けた先で怜子が座り込む。もう何者の気配もない。おそるおそる振り返ると、空を覆っていた雲は跡形もなく、あかるい日差しが降り注いでいた。  薄い林の向こうには野っ原がひろがり、小高い丘の下には無責任な人々の家が無数にならぶ。そして、踏み固められた道に立つ僕の足下には、ずたずたに引き裂かれた羽織。
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