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第12話 忌中札
正直、迷っていた。
このまま行くか、戻るか。目的の集落はもうすぐ近くだ。しかし、また妖しのことがあればどうする?
とはいえ、ここまで来て、ただ引き返すなど馬鹿ばかしいかぎりだ。ここで引き返しても、少し先から引き返しても、そうは変わらない。なら、真紀の顔をみて帰ろう。そう思った。
怜子の手をとって、その冷たさに潜む不吉を舐めながら気持ちを励まして歩く。
空は人の心を映すというが、からりと晴れた冬空に、不吉さは微塵もない。ただ、刺すような冷気だけは如何ともしがたく、羽織を失った怜子は寒そうに震えていた。貸してやる上着もなく、できるのは強く手を握ることだけだ。
もうすこし歩けば真紀に会える。きっと、あたたかく迎えてくれるだろう。それだけを思い、冷たい山風に耐えて歩をすすめた。
ところが、待っていたのは忌中札だった。
黒い服の群れが行き来するなか、怜子の真っ赤な着物はよく目立つ。人々の非難するような視線に嬲られ、所在なげな様子は、ぽつんと夜に咲く彼岸花のようだった。
訪いを拒絶するような紙の貼られた木戸を叩く。
なかで人の応じる気配がして、がらりがらり、すべりの悪い引き戸が開くと、悲しいよりも不満げな、なにか怒っているような男の子がでてきた。粗末な着物に痩せた手足が目立つけれど、顔立ちや雰囲気が真紀に似ている。年の離れた弟なのかもしれない。
嫌な予感を覚えながらも、それを認めたくなかった僕は、屋敷の使いであると嘘を交えて、真紀がどうしているか尋ねた。すると、男の子は、こいつはいったい何を言っているのかというような、ぽかんとした表情を浮かべたが、やがて何を尋ねられたか理解したらしく、激しい怒りを滲ませ、すこし離れて立つ怜子と、その豪奢で華やかな赤と金の着物を睨みつけながら、あれが屋敷のお嬢さまか、と問うてきた。
困惑しながら、そうだと応じるや、内に走りこんだ男の子は、水を張った手桶を持ちだして、止める間もなく、怜子に向かってぶちまけた。唖然として見送ってしまった僕の耳に、憤懣の声が響く。
姉ちゃんが死んだんは、あんたらのせいや! この憑きもの筋が。
手桶いっぱいの水を避けるでもなく、まともに受けた怜子は、冬空の下、髪から足元までずぶぬれだ。着物の赤は、濡れてくすんで萎んで、傾く日の光で土色に。踏みつけられて厚みをなくした泥まみれの花が如く。
おまえ、何を! と、男の子、たぶん真紀の弟の胸ぐらをつかんで絞めあげる。息もできないありさまながら、反抗的な目は変わらず、こちらを睨みつけてやまない。腹が立って腹が立って、絞め落としてやろうかと思う僕の手に、怜子が冷たい手を重ねた。
「待って、光雄。いいの。やっぱり真紀は亡くなっていたのね。帰りましょう」
そう告げる怜子の目は寂しく、うすく涙を浮かべて懇願するかのようだった。せめて体を拭いてからと言っても聞く耳を持たず、すたすたと歩いていってしまう。
誰を責めもせず、声も荒げず、問いかけもせず、寒空の下、濡れ鼠のまま立ち去る後ろ姿を、僕の手から解放された男の子は、すこし後ろめたいような、もしくは不思議そうな様子で見送っていた。
はっと気付いたときには、怜子の背中は遠く、そのまま置いていかれてしまいそうで、僕は走って追いかけた。
少しずつ傾いていく背中越しの陽の光に、怜子の輪郭が溶けていく。消えてしまいそうな小さな背中に声をかけられない。
やがて、淡々と進む背中が歌う。
どこかで聞いたような聞かぬような、山の子どもらがうたう遊び歌だろうか。聞いていると悲しさが込みあげてくるその歌は、真紀への手向けの歌に違いなかった。ひとしきり歌い終わって、振り向かず、立ち止まらず、
「ねぇ、光雄。この歌は遊び歌だけれど、本当は人買いの歌なのよ。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳目をすべてなくした故に忘八という。なにもないというのは不幸かしら、幸福かしら?」
と問いかけつつも答えを欲しないようなその言葉に応じかねていると、さらに続けて、
「もしかしたら、と思ってはいたの。でも、そう思いたくなかった。言葉にしたくなかった。かみながらことあげせぬものを」
と淡々と語る。その肩は、寒さゆえか、かたかたと震えていた。
屋敷へ着くまで、もはや言葉はない。
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