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第15話 朧月
季節を先取りしたような朧月が浮かんでいる。かわたれどきに屋敷の門が見える暗がりで待っていた。
頭巾の女性がいう女を。
もしかしたら、それが誰かわからないまま蟲も消えてしまうのではないか。そう思えた。なぜなら、夜半に受けとった蟲は次第に姿が薄れ、感触も薄れつつあったからだ。あの女性は何者なのか、女とは誰のことか。疑問は尽きないまま、愚直に待っていた。
やがて、月が薄れ、蟲が薄れ、夜が薄れてきたころ、その女がやってきたんだ。
美しいといえば美しい。艶やかといえば艶やかな。影があるといえば影のある。そんな女がしゃなりしゃなりと歩いてくる。着崩した着物の合わせ目から肌をさらし、際物商売、蓮っ葉な雰囲気を醸しているのだ。喧嘩煙管並に長い銀煙管を弄んで肩をポンポンと叩きながら、つまらなそうにしていた。
それが屋敷の門前に至る前に、ふと足を止め、こちらを見もせずに言葉を吐いた。
「そこの小僧、おれに何か用か?」
まだ朝というには早い時間、銀煙管が月だか日だかの光を弾いて朝露の如く。きらきら、きらきらと輝く煙管から目をそらして自分の手のひらをみると、小さな蟲が儚く消え失せそうな有り様だ。
呑むなら今しかない。
思い切って蟲を口中に放りこみ、噛みつぶさないように気をつけて呑みこむ。苦く、言いようのない不味さだ。舌の上で、どろりと腐った溝が溶け、びくびくと小さな手足が動いている感覚がある。すさまじい味と匂いが満ち、吐き出したくて仕方がない。
しかし、ここで吐き出してしまえばもう怜子に会えない。そんな気がして必死に手で口を押さえ、ごくりと呑んだ。のどが焼けつくようで、体中の臓腑が腐り果てるようだ。立っていることもできず、体をくの字に曲げてその場に倒れこんだ。それで済まず、腹の中で何かが暴れまわっていた。もの言えぬ苦しみのなか、意識が途絶える間際、空に浮かぶ朧月と銀煙管をくわえた女の姿が重なり、そして消えた。
いやな夢をみた。
やがて目を覚ますまでの半日ほど、ずっと悪夢に悩まされていた。痩せ衰えた怜子が息絶える、蟲と化した自分が怜子の白い歯で噛み砕かれる、腹の中に産み付けられた蟲の卵が孵化して口から目から鼻から零れ出してくる。
脈絡なく続く悪夢の奥で、怜子の声が聞こえ、腹に押しつけられた異物を感じ、目覚めると、あの蓮っ葉な女が銀煙管を僕の腹に押し当てていた。吸い口から、ふわふわと黒い霧のようなものが流れだし、それが止まると、すっかり気分も落ち着いてきたのだった。ゆっくりと身を起こすと、光雄!と怜子の声がして抱きつかれていた。
どうやら、あの女に介抱され、屋敷へ運び込まれていたらしい。女は屋敷の分家の者で、倉橋みきと名乗った。
「いやはや驚いたわい。おまえ、なんのつもりだ。おれを朧月のみきと知ってのことか、それとも、人外に惑わされたか」
銀煙管をふかしながら笑う。
御高祖頭巾の女性のことを告げたが、心当たりはないようだった。
「はて? 何者であろうな。おれのことを知っておるようだが。ところで御両人、いつまで抱き合っとるんな」
にやにやと楽しそうな声に、さきほどからずっと怜子に抱きつかれていたことに思い至った。すっと離そうとしたが、いやいやをするように離れようとしない。そんな怜子の様子をみて、みきは嬉しそうにしていた。
「まあいいではないか。怜子のそんな姿をみたのは初めてだの。この子をよろしく頼むぞ」
ほろほろと煙とともに笑い声が広がる。怜子の背中もあたたかくほころんでいた。が、たった一人の登場により、ほんの一瞬で空気が凍りつくのだった。白い素足をさらして部屋の前に立ったのは、そう、女当主だ。その体半分を部屋に差し入れて言う。
「ふぅん、まだ来るとはな。小僧、思うたより性根が据わっておるじゃないか。それでこそ、それでこそよ。それでこそ、怜子も使命を果たすであろう」
みきが首を垂れて畏まり、僕もまた同じように慇懃に首を垂れていた。そして、それを自然なことと捉えていたのだ。不信と不満しかないはずなのに。
その理由は、まだわかっていなかった。
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