第16話 目くらまし

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第16話 目くらまし

 こうして朧月(おぼろづき)のみきこと倉橋みきと縁を結び、その弟子となった。そうすることで屋敷への出入り、怜子との逢瀬(おうせ)が楽になるとの打算もある。  しかし、じつのところ、蟲を喰らい、屋敷で介抱されたそのときよりずっと、細く長く気配の薄い術にかけられていたらしい。  あれだけ不信をもって接していた女当主に素直に(こうべ)を垂れるなどということが何故ありえたのか、それを疑問に思わなかったのは何故だったのか。そこな屋敷は、もはや人の住まうところではない、と御高祖頭巾(おこうそずきん)の女性が言っていたではないか。  その所以(ゆえん)について、いまでも全てを理解したとは言いがたいが、ひとつ確かなのは、後に僕の師匠となったみき様も術にかけられていたし、広い意味では、怜子も女当主もまた術にかかっていたということだ。  誰が為した術とも言えず、人の一生を越えて連綿と受け継がれてきた(ごう)のようなもの。それぞれがそれぞれ良いと信じる道を歩んできた結果の最悪が、屋敷に関わる者たちを待ち受けていた。ただ、わずかながらもそれと気付いていた者もおり、そのお蔭をもって薄皮一枚の希望が繋がったのだろう。  みき様に弟子入りするとの目論見(もくろみ)は、存外、すんなりと受けいれられた。  世間的には陰陽師やら呪術師やらと言われるが、屋敷では、ただ術師とのみ呼んでいた。こまかく言うと、半人前は術士、一人で動けるようになってようやく術師というが、煩雑なので全て術師としよう。  これまた世間的には妖怪、(あやかし)、化物などと言われるものを総じて(むし)と呼ぶ。それを呑むことで体内に取りいれて浄化する術を至上とし、蟲喰いの儀という。  ちいさな蟲ながら、僕は図らずも蟲喰いをしてみせたわけだ。もっとも、本当に死んでいてもおかしくなかったらしい。蟲を喰って浄化できなければ、ときに呪われ、ときに(はらわた)を食い破られることもあるとか。  蟲が産まれる所以は、はっきりとしない。口伝では人々の想いから産まれるとされ、主には、恨みつらみ、憎しみ、妬み、怒り、さまざまな負の感情によるが、ときには好意や思慕の情から産まれることもあるという。  こうしたことは、弟子入りを経て基礎を身につけた後のことだ。最初に習ったのが、いわゆる目くらましであったことは、一種、皮肉なことだった。屋敷に関わる者たちはみな目くらましにかけられていたのだから。  みき様はいう。 「いいか、光雄。ひと一人の命を奪うに、槍だの刀だの大仰(おおぎょう)なものは不要だ。目くらましひとつで十分よ。人はみな目や耳や鼻や口や手で世界の皮に触れておるのだからな。  道と思うて道でなく、橋と思うて橋でなく、段と思うて段でない。ただそれだけで人は道を(たが)える。冬山で死ぬ者たちを思うてみよ。幻に包まれて、心地よく死んでいくであろう。術師が基礎として目くらましを学ぶというのも理由なきとはせぬ。おれたちは本質を見極めねばならんのだ」  だからこそ気をつけよ、と言葉を続けた。 「急な変化には不快を感じもしよう、あるいは喜びかもしれんが、すぐに気付き、必要な対処をとることができる。一方で、少しずつ少しずつ、わずかに変化していく物にはなかなか気付けないものさ。おまえもおれも、誰もがな。  五感の作用を通じてしかこの世を知れぬ愚かで愛らしい生き物だ。いつのまにかこの世を別のように見てしまっているのではないか。そう常に恐れよ」  すべてのことが終わってより思い出せば、師匠の銀煙管(ぎんきせる)から漂う煙のように、儚く、それでいて確かな教えだった。ただ、いつの世でも自分だけは大丈夫と思ってしまうのもまた確かだ。  朧月(おぼろづき)のみきこと倉橋みきに弟子入りし、再び屋敷へ公然と出入りするようになってから、敷地へ足を踏み入れるたびにわずかな違和感を感じていたけれど、それも繰り返されるたびに薄れ、気付けぬようになっていった。
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