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第17話 小夜
当時のことは、霞がかったように茫としている。
大人になって子どもの頃を思いだすときのように、確かにあった出来事であるのに遠い異国での出来事のような気がして己とは無関係なことのように思えてしまう。
怜子に会えるようになったことを喜び、いずれ怜子に代わって蟲を喰う、そのためと信じて修行に励んでいた。蟲を祓う方法、蟲が湧く場の閉じ方、蟲の偏りの調整など、さまざまなことを学び、数年を経て、術師となった。地方の仕事を任されるようになり、世間的な祓い師としての稼ぎも覚えた。
その日も東北で仕事をしていた。
地方の術師のなかにはタチの悪い者もおり、穢れを祓う力を持ちながら、その力を出し渋り、謝礼をつりあげることだけを考えていたりする。果ては、蟲を滅することなく、偏りの調整と称して故意に逃がすことさえあった。
僕が組んだ相手もそうした男だった。
屋敷に出入りしていても、分家の見習い弟子のような立場だったから、男の不快な所業に目を瞑るしかなかった。
鬱々として日を送り、早く東京へ戻りたいと思っていたところ、意外なところで意外な人物と出会い、そこで男は死んだ。
一仕事終えて男とともに宿へ戻る途中、夜道で待っていたのは御高祖頭巾の女性だった。
まさか地方で出会うとは思わず驚いた。向こうも僕がいることに驚いた様子で、予想だにしていなかったらしい。
だが、動揺は短く、女性は、スッと覚めた目で男を呼びとめ、頭巾をとってみせた。異様なほど肌が白く、深く黒い瞳が魅力的で、みつめられれば石と化しそうに美しい。
女性に耳打ちをされた男は、にやつきながらその後を追っていった。
一方、男から先に宿へ戻るように言われ、女性からも態度でそう示されたものの、何者であるのか、なぜあのとき蟲を呑むように告げたのか、聞きたいことは山ほどあり、僕も二人の後を追うことにした。
まだガス灯やら電灯やらも無いころの話だ。暗い夜道を、女性が男を先導して苦もなく歩いていく。すたすた、すたすたと。
時間にしてほんの数分の遅れだろうか。河原の掛小屋へ二人を追って入ったときには、すでに事は終わっていた。オオイタチの見せ物の如く、小屋の板壁に串刺しになって男は死んでいた。殺したのは女性ではない。まだ刀の柄を握ったままの覆面の人物だ。
その人物は、男の後を追って掛小屋に入った僕を殺そうとしたらしい。凶悪な刃物が一瞬だけ光り、それを女性が鋭く制止したのだ。
「おまちください。この少年が倉橋みきの弟子となった者に御座いますれば」
との声に、刀の切っ先が目前で静止した。
背後で、ずるずると死んだ男の体がずり落ちる。覆面の人物が目にも止まらぬ速さで板塀から刀を引き抜き、一挙動で僕を突き殺そうとしていたのだ。
息もつけず、呼吸が止まったまま鋭い切っ先を見つめていた。ふっとその圧が消え失せ、刀を納める音が夜に溶けた。
行きなさい。
御高祖頭巾を被り直して女性がいう。
「あんたたちは何者なんだ?」
問いかけに応えることなく、今度は隣に立つ覆面の奥から低い声がつぶやく。
「天網恢恢疎にして漏らさず。必罰なり。小夜、行くぞ」
小さな声でくぐもって聞き取りづらく、ただそれなりの年の男とだけ知れた。結局、その日の収穫は女性の名前だけだった。
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