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第2話 夏の庭
じっとりと汗ばむような季節だ。
あちこちで蝉が鳴いていて、けれど、その姿はみえない。ふわふわとした音が僕の足をすくいあげるかのようで、ここ数ヶ月の出来事が現実とは感じられないでいた。
何度目の連絡だっただろう。
怜子が倒れたとの知らせを聞くたびに、背中の汗がひけて寒気を覚えたものだった。急いで屋敷に戻り、広い中庭を突っ切っていくけれど、生い茂った草花が行く手を阻もうとしてくる。藪蘭、女郎花、杜鵑草、もう咲いているのもあれば、蕾がないのもある。どうでもいいことに目がいく自分に腹が立った。
縁側の向こう、開いた障子の奥に怜子の部屋がある。病弱で自由に出歩けないからと、中庭に面した離れの一隅を使っていた。
まだ日は照りつけているものの、しずかな夕暮れが、うすぐらく近づいてきている。
あたまのなかに入りこんだかのように蝉の声がひびき、灼けた畳の色、洗いざらしの布団、やつれた娘の姿が目に映る。斜めに落ちる光が、怜子の顔を白く浮かびあがらせていた。病床に半身を起こした彼女は儚く、それでいて張りつめたものを持っていた。
遠目にその姿をみて、ほっとする。
これで何度目かと思いながら、あと何度だろうと不吉な考えが脳裏をよぎった。
肩や袖についた花弁と葉をはらい、彼女が好きな杜鵑草の花を折りとって縁側へ歩みよる。僕に気付いていないわけもないのに、怜子の目は中庭全体をみつめたまま、どこか遠くから此方をみているように思えた。そんなとき、いいしれぬ寂しさに襲われる。交わることのない二つの珠が別々の世界で転げているかのように。
ふいと怜子が目を瞑り、目を開いて、僕の方をみた。口もとに微笑が漂っている。
「ふふ、倒れるたびに光雄が来てくれる。病気も悪いことばかりじゃないわ。狼少年ならぬ狼少女ね。それとも褒姒かしら。諸侯は狼煙を無視するようになったけれど、きみは何度でも来てくれるんでしょう?」
「うん、来るよ。何度でもね」
杜鵑草の花を渡すと、怜子は、すんすんと匂いをかいだ。
縁側に腰をおろした僕に香るのは、清潔だけれど冷たい病床特有の匂い。開け放たれた障子の奥、怜子の部屋の奥には質量をもった闇が蹲り、虎視眈々と彼女を狙っているように思え、日差しの暑さとは対照的に、ひんやりとした風を感じる。
いたたまれずに中庭へ目を転じると、生い茂った緑が輝くようで、燃えるような生命の喜びに満ちていた。
ねぇ、
と、あまえ声が聞こえて、両手で体を支える怜子が眩しそうにしていた。杜鵑草の花は薬と一緒に盆のうえで寝転んでいて、すこし寂しそうだ。
「いま、わたしが何をしたいかわかる?」
「さぁて、お釈迦さまでも気がつくめぇて」
「もう、ばかにして! これじゃあ、一分じゃ帰れねぇ、とでも言うつもり? そりゃあ、この体じゃ自由に出歩けないけど、囲い者と一緒にしないでほしいわ」
「はは、わるかった。ごめんしてくれ。とはいえ、この世で人の心ほどわからんものはない。だから言葉があるんだろうねぇ。
どれ、ちょいと姫君のお手をわずらわせて申し訳ないが、お望みのことを、この下僕めにお伝えいただけますかな」
「きみのそういうところ、きらい!」
むくれて顔をそむけるも、すぐに、こっちをみて、
「でも、ちょっと好き」
と、はにかんでみせた。その透き影のような笑みは、もろく崩れていきそうで。
「わたしはね、光雄くん、きみと一緒に庭を歩きたいんだ。ほら、子どものころ、あちこち探検していたときみたいにさ」
「よく怒られたけどね」
「そうだね。でも、歩きたいな」
と、伏し目がちな視線を自分の両脚に向けていた。それは白い布団に隠されているが、病気のせいで歩く用をなさない。声とひきかえに健康な足をもらえるとすれば、その取り引きに応じてしまうのかもしれなかった。
「よし、歩くか」
僕の申し出に、驚いたような、怒ったような声で応じる。
「どうやって歩くの? わたしは……」
その声を身振りでさえぎり、だまって背中をむけた。背中越しに怜子の動揺が感じられる。首だけで振りむいて、さぁ、と促すと、身をいざらせて、ためらいがちに背中に寄りかかってくれた。目の端で、浴衣に染め抜かれた朝顔模様の青色があざやかに映る。
首にまわされた華奢な手が、ひんやりとしていて心地よかった。ゆっくりと庭に降りて背負いなおすと、
「ありがとう。重くない?」
と言うので、
「ちょっと重いな」
と笑ってやった。
もう! と怒ってほっぺたをつねってくるけれど、その痛みのせいでなく、本当は、軽くて軽くて仕方がなくて、つかまえていないと、そのまま空へ昇っていってしまいそうで、気を抜けば、とくとくと涙が出てきそうだった。
あふれることのないように、怜子に気づかれることのないように、目の端に涙を溜めたまま見る夏の庭は、あかるく滲んでいた。
視界が霞むにつれて周囲の音が大きくなる。怜子の息遣いと温もりと、落ちてくる蝉時雨と。あたまのなかに蝉が棲みついたように思えた。
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