8人が本棚に入れています
本棚に追加
第21話 髑髏の華
いつだったか、障子の合わせ目から中をのぞいた日のことを思いだす。
あの頃は、まだ蟲のことも知らず、蟲喰いの儀についても知らなかった。怜子がしていたことを思い、中に彼女が居るのではないかと思いながら、そっと中を覗くと、そこに居たのは、早々に退席した女当主だった。
ほかに誰もおらず、 薄明りの灯された室内で、片膝を立て、黒い着物から白い素足をむきだしにして、なにかを食べていた。
ばりばりと。
ばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりばりと。
厭な匂いと音が充満する。さらに、ひと噛みごとに黒々とした瘴気が立ち昇る。術師となってからこっち、師匠連中の蟲喰いの儀を見てきたし、呪い蟲を浄化するための祓いであり、ある意味では神聖な儀式だった。
しかし、それは、そのありようは、神聖さとはほど遠く、ひたすら不吉さと邪悪さを醸しだしていた。
人は、美しいもの、善なるものにばかり目を奪われるとは限らない。
薄明りの奥から響く匂いと音から目を離すことができない。やがて、それらが途切れ、背を向けたままの女当主が動きを止めていた。
再び動き出したのは、べろり、べろり、舌で手を舐め取るような緩慢さだ。さらに、手を伸ばして目の前におかれた四角な箱を開き、取りだしたものを口にした。そして、再び、
ばりばりばりばりばりばりばりば••••••
と、動かしていた口を閉じると、こちらへ振り返った。その顔は、かつて見た響面の鬼女のようでなく、穏やかで落ち着いたものだった。
「光雄だね。そんなところで覗いておらず、まあ入るがよかろう。みきの弟子となり、我が一族に連なるものとなったのだからな」
そう声をかけられ、ばつの悪い思いをしながら障子を開いた。
夕餉のころとて、初夏の影があかるく室内を照らしだす。その光を避けるように、もののかげが部屋の四隅に散った。
ざわざわと暗がりがうごめくように見え、そして、わざとらしいほどに、愛らしく、若々しく畳に座す女当主の姿がうかびあがり、そして、その艶めいたくちもとから、手のひらほどの醜悪な蟲が走った。
くちもと、いや、くちのなかからだ。
死体から這い出す蜥蜴かなにか、あるいは傷口にわく蛆虫、あるいは髑髏に生える華のようでもあった。思わず体を硬直させたところへ、
「おや、どうしたえ? なにかみたのかえ?」
と、優しく穏やかな声が問いかける。いえ、なにもと応じるが、
「うそをつけや!」
と、口角泡を飛ばすようにして怒鳴りつけられた。その口の端から、ちいさな手足がはみだしていた。
手足に続くのは、蛭だか百足だか蛞蝓だか、なんとも知れない醜悪な姿をした蟲だ。でたらめに生えた手足の隙間に、人の目のようなものがある。生理的に受け入れがたいそれが女当主の口中からこちらを見ていた。
が、ぶつん、と断ち切られる。
女当主がはみだした蟲の手足を噛みちぎったのだ。そうしておいて、ばりばりばりばりと咀嚼し、飲みくだした。
げぷり、黒々とした瘴気を吐きだす。
「みぐるしいかよ?」
くくく、と笑うのに、なんと返せばよいのかわからない。ただ、みき様が為す蟲喰いの儀とは根本的に異なるもののように思えた。黙ったままでいると、女当主が居住まいを正し、まっすぐとこちらへ向き直った。
「これが我が一族の宿業よ。さて、おまえに聞こう。正義とは美しきものと思うか。どうだ、わからぬかよ。正義とは美しきか。く、く、く、否、否、否。違うな。泥まみれになる覚悟がないものに正義は為せぬ。
怜子が蟲を喰うて厭きぬのは、おまえのためぞ。おまえは半端者よ。人の想いが腐って凝って、呪いとなり、形をなした蟲が見える。ただ見えるだけさな。
だが、見えれば襲われる。
そんなことはない、襲われたことなどないと思うておるな。そも、おまえが襲われぬのは何故だと思う。わしらが喰ろうておるからさ」
ざっ、と右手を箱のなかに入れ、ばさりと蟲どもをつかみだした。
「くはは、喰ろうてみるか。お歯黒溝の底より掬いあげたようなこの蟲どもを!
ほれ、見えるならば喰えるであろう。ほんの切れっ端をやろう。喰えば七転八倒の苦しみ。だが、そうしてこそ一族の証よ」
さあ、と突き出された手に握られた蟲たちは、その手を逃がれようともがき、人の目のような目から涙をこぼしていた。あるいは鰐の涙なのかもしれない。
その目と女当主の目とは、どこか似ていて、それに気付いたとき、ひゅっと吸いこんだ息が外へ出ようとしなくなった。
のどに透明な膜を張られでもしたかのように息ができない。ひっ、ひっ、ひっと笑うような声を漏らしながらその場に倒れこむ。
覗きこんでくる女当主の顔は陰になって見えず、どこからか腐った溝川のような匂いがしてきた。
最初のコメントを投稿しよう!