第3話 赤と黒

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第3話 赤と黒

 夏は嫌いじゃない。  蒸し暑くても、寝苦しくても、闇が深くても、透き通るような蝉の声が、僕を過去へとつれていく。きみのいる過去へ。  父が、いつから本家の屋敷に出入りするようになったのかは知らない。ずっと屑屋(くずや)をやっていて、まだ物心つくかつかぬうちから、僕もその手伝いをさせられていた。  ばかで愚かで知恵もない、そんな悪童にさえ、高い塀で囲まれた屋敷には自分と違う人たちが住んでいるとわかった。  いったいどんな人たちなんだろうと、父の目を盗んで中庭へ入りこんだとき、そこにいたのが幼き日の怜子だった。  塀のなかでは汚い異物でしかない僕をみても驚かず、縁側から傲然(ごうぜん)此方(こちら)をみおろすようにしていたっけ。  まるで祝い事のような真っ赤な着物地に、金色の鳥模様が羽ばたいていたのをよく覚えている。高貴などという言葉は知らなかったけれど、あのときの印象はそれ。四民平等といっても、厳然として下賤のものは下賤のもの。そのありさま、雲泥(うんでい)の相違ありってね。  それほど長くはなかったが、見つめ合ったまま時が過ぎ、やがて屋敷の使用人に捕まって、こってり絞られる羽目になった。  怜子は一言も発することなく、その場を離れていき、さて、順当に屋敷の外へ叩き出されるかというところ、たまたまそこへ女当主が通りがかって声をかけられたんだ。  (いや)しい餓鬼(がき)とはいえ、いや、そうだからこそ、怖いものなんてそうはなかった。殴られたり蹴られたり脅されたり、(さげす)まれようと、(おとし)められようと、人として扱われなかろうと、だからどうした? そんな図太さをもっていた。それなのに、まだ姿もみないうちから体が震えた。  女当主の優しげで恐ろしげな声が二重になって心を揺さぶってくる。幼いながら、いや、そうだからこそ、人でなしを見抜くことができたのかもしれない。化野(あだしの)に打ち込まれた卒塔婆(そとば)の影が、ゆっくりと足もとへのびてきているような不安があった。  暑い日差しの底で震えている僕の耳に、使用人と話す女当主の声がきこえていた。 『どこの餓鬼(がき)だね? ああ屑屋(くずや)のか』  使用人が、どうして何事もないかのように言葉を交わすことができるのか理解できなかった。見なくてもわかるくらい、この女は……。と、そこで、幼い僕の思考は停止した。  顔をあげられないくらい近くに女当主の顔があった。きれいで、つるりとしていて、非の打ちどころのない美人が、 『ふぅん、勘のええ餓鬼(がき)やね。ええな、手元に()うておきたいなぁ』 と笑った。ぺろりと舌を出して、背の高い女当主の影が不自然に伸びて僕を呑み込んでいく、そんな幻をみたように思う。  そのままでいたら、どうなっていたか。  しかし、(りん)とした声が不吉な幻を破り、僕のまえには(さん)々とした夏がもどってきたのだった。毅然とした様子の怜子が縁側に立ち、 「わたしの客です」 と、それだけを言い放った。対して女当主は、ほう、と怜子に向きなおり、折れ曲がるようにして下から顔を覗きこんだ。  二人が家族なのか何なのかわからない。ただ、自分が対峙しているわけでもないのに汗が噴き出してくるのがわかった。女当主の着物は喪服のように黒々としていて、うつむいたままの怜子を包みこむかのようだ。  しかし、じっとりと()め付けられても微動だにせず、怜子は夜の彼岸花のように赤く咲き誇っていた。やがて、不自然なほど白く美しい女当主の顔が、ぐわりと持ちあげられて元にもどり、 「おまえの客か。そうか」 と笑みを浮かべて、せいぜい、もてなしてやれやと言葉を落とした。  怜子が、ぺこりと頭を下げるのと、黒い着物が立ち去るのとほぼ同時で、張りつめていた空気が(せき)を切ったように流れだした。
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