第4話 麦湯

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第4話 麦湯

 やっと息ができるようになった僕を憐れむようにして、怜子は、おいで、と声をかけてきた。犬ころの如き扱いに、しかし、腹を立てるでもなく、ふらふらと応じてしまう。二人のやりとりにあてられていたのかもしれない。  僕は縁側にのぼり、さして足を動かしているようにもみえないのに、すっと先導していく怜子のあとを追った。  ひろい屋敷の奥、渡り廊下の先が怜子の部屋だった。ひとけがなく、なんだか殺風景で寒々とした雰囲気だった。夏だというのに薄暗く、冷たい空気が足もとにあふれていた。  しかし、障子戸が開かれると、一気に夏がなだれこみ、足もとの冷気は消えうせ、蝉の声で埋められてしまった。障子戸の向こうは中庭を逆から眺めるような塩梅(あんばい)で、生い茂った草花が風に揺れていた。  子どもの僕には名前もわからなかったけれど、いまと変わりなく、藪蘭(やぶらん)女郎花(おみなえし)杜鵑草(ほととぎす)などが植えられ、いくらかは花を咲かせていたように思う。まぶしそうに夏の庭を眺める僕に、 「きれいでしょう?」 と得意げに言うと、怜子は開いた障子戸から縁側を通り、素足で中庭へ降りた。豪華な着物が汚れるのも構わず、土をけって井戸に向かい、軽快に鶴瓶(つるべ)を引きあげる。  ちゃぷちゃぷ、からからと音がした。  清浄で冷たい水が満たされているのだろう。縄をしならせて鶴瓶(つるべ)(ふち)に置き、片手をさしいれて水をすくうと小さな口もとへ含んでみせた。  ごくん、と(のど)を通る音が聞こえた気がする。と、こちらを見て、あんたも飲む? と身振りで問いかけられた。首を振る僕に、そう? と応じると、あ! と声をあげて、 「そうだわ。麦湯にしましょう」 と嬉しそうに笑い、 「真紀(まき)真紀(まき)!」 と人を呼んだ。真紀というのは、怜子のお気に入りの使用人で、あまり家庭的に恵まれなかった彼女にとって、姉代わり、母代わりのような女性だった。  おっとりとしていて温和で、怒ったところなんて見たことがない、そんな人で、僕も大好きだった。最初のときも、はいはい、と、のんびり返事をしながらやってきて、僕みたいな襤褸餓鬼(ぼろがき)をみても嫌な顔ひとつせず、麦湯をいれてきてくれたものだ。  お盆のうえの麦湯を受けとると、怜子は、あとは、わたしがやるからと応じた。お嬢様にそんなことをさせてはと渋るのに、いいから、いいから、真紀は忙しいでしょ、と強いて受けとったのだった。  さあ、そこに座りなさい、と人に命令することになれた様子で怜子がいう。そのころの僕らにとっては広い部屋で、互いに座卓をはさんで腰をおろすと、 「さあ、麦湯を飲みなさい。お客人には飲み物を出すものよ。そして、お客人は飲み物を飲むものなの。わたし、知ってるんだから」 と嬉しそうに麦湯を差し出してきた。  しかし、水と白湯(さゆ)しか飲んだことのなかった僕は、なんとなく気後れして手を出せずにいた。もちろん、やっと夢から醒めてきた気分で、こんなところで〈お嬢様〉とお茶なんて飲んでいていい身分じゃないことを思いだしてきたからでもあった。 「飲まないの?」  すこし不安そうに聞いてくる。くるくると変わる表情が泣き顔になってしまいそうで、僕は熱い麦湯をあわてて飲んだんだ。 「よかったぁ」  と嬉しそうな怜子の声に、僕も嬉しくなったのを覚えている。ぱっと明るい表情に変わって、彼女はまた強気な口調でいう。 「光栄に思いなさい。あんたは、わたしの初めてのお客さんよ。これからも訪ねてこないと駄目だからね。わたしの客なら追い返されたりしないんだから」 「僕なんかがお客さんでいいの?」 「もちろんよ。だって、あんた、いつも外から来るじゃない」  そう話す明るい口調に、すこしだけ(かげ)(にじ)む。 「わたしは、あまり塀の外にだしてもらえないの。だから、外のことを話してちょうだい」 「外のことって? なにを話したらいいのさ」 「なんでもいいから話して。お茶をもらったり、なにかをしてもらったら、ちゃんとお返しをするものよ。それとも、ほかに何か返してくれるものがあるの?」 「ないよ、そんなの」 「ほら、ごらんなさい。さぁ、話すのよ」  命じられるようにして、仕方なく、貧乏長屋の様子とか、仲間のくそ餓鬼とか、おかずのない芋だけの飯とか、そんな話をした。でも、そんなくだらない、どうでもいいような話をこそ、彼女は聞きたがった。  結局、夕暮れどきまで離してくれず、ずっとくだらない話をさせられたのだった。父が待っていたはずだけれど、真紀が話をして、いくらかの金子(きんす)を包んだらしく、帰るときにも何も言われなかった。帰り際、怜子は、 「これからもお茶を飲みにきなさい。わかったわね? 返事は? ん、よろしい」 と、満面の笑顔で送ってくれた。その弾けるような笑顔はまだ僕の頭のなかに咲いていて、そのとき、どこかで鳴いていた(せみ)が、また一匹、そこに棲みついた。
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