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第7話 蟲
花街の灯りを眺めていた僕らの耳に、かんかん、かんかんと警告を伝える半鐘の音が。
堤から降りていく提灯の群れがあたりを照らしていて、小さなのが二つ、大きなのが一つ、全部で三つの人影が門を飛び出してきた。人の目がそれらに奪われ、遠目にも人波がわれる様子がわかった。
しかし、かたわらで怜子が短い悲鳴をもらしたのは、人影のせいではなかった。ひっ、と息を呑むような声の先、視界の端にみえたのは、ごうごうと炎に巻かれた蟲だ。
そのころの僕には、ただ化け物とだけみえていたけれど、花街を囲う溝から盛りあがるようにして、獣の胴体に虫の脚、潰れた人の頭を貼りつけたような奇怪な物が身をもたげて。それはなぜか人々の目には映らぬらしい。提灯の持ち手たちは人影をさけて右往左往しながらも、身に纏った炎で天を焦がす蟲を恐れもせず、避けようともしない。
みえていたのは、僕らだけだった。
そいつは手近な男を一人、細く硬質な百足じみた脚で捕らえて、ずるずると溝へひきずりこんでいく。思わず、あっ、と声をあげて立ちあがっていた。
遠く、堤の上からみているという安心感、どこか別のところでの出し物であるかのような非現実的な感覚がそれから目を離すことを拒ませ、他の誰に気付かれることもなく、おそらくは泣き叫びながら溝だか何処だか、蟲の住まいへと引きずられていく者を眺めていた。とても表情がわかるような距離ではないのに、救いをもとめる両の目と、目と目があったように思え、そらした視線が蟲の体へと移った。すこしずつ溝の底へ沈んでいく汚れた毛皮は黒々とした炎に包まれ、溝に沈んでも、腐った水底で、ゆらゆらと焼け続けている。そう思えたのは、鳴りやまない半鐘のせいか。そろそろと体表をすべるように視線を動かしていくと、蟲の顔なのだろうか、つぶれた人の頭のような物が視界に入ってきて、
「見ちゃ、だめ!」
と、怜子に強く袖をひかれた。けれど、はっと気付いたときには、燃え盛る蟲の目がこちらをみていた。それは冷たい無感情な虫の目ではなく、驚きに続いて、そう、憎悪をむきだしにしているのだった。
蟲が、男の体を抱きつぶした。
ぼちゃぼちゃと黒い屑のようになって、肉片が溝に沈んでいく。次の瞬間、蟲の姿が消えて、鼻の奥から、腐った溝川のような匂いが。
自分のすぐ後ろに、そいつが居ることがわかる。なのに、いや、だからこそ動くことができない。じわじわと近づいてくる気配がして、四六の蝦蟇にでもなったかのように、たらりたらり、汗が滲みでてくる。
ぱしりと小さな手が僕の手を握りしめた。
夜気に冷たく染まった怜子の手だ。そのまま引かれるようにして、先へ先へ走りだした怜子と一緒に走りだす。動きだしてしまえば、体の自由も戻り、混乱しながらも思考が戻ってくる。
なんだ、あれは?
背中に追ってくる気配を感じ、口に出すに出せない疑問に、本当は答えが浮かんでいた。……蟲がいるから。そう言った怜子の声を思いだす。けれど、それを蟲と言おうと化け物と言おうと、左様なことはいい。差し迫っての問題は、そいつが僕らを追ってきているということだった。
くらい夜道のさき、屋敷のあるあたりが明るく輝いているように映り、根拠はなくとも、そこへ逃げこめば助かる。そう思えた。
ところが、角を曲がり、屋敷の正面に着くと、いつのまに先回りしたのか、ごうごうと火に巻かれた蟲が、出入り口をふさぐように立ちはだかっていた。ごぽごぽと泥を吐きながら、人の言葉のような、それとも意味をなさない振動のような音を立てる。
怜子が僕を庇うように前に立ち、何事か呪詛の言葉を唱えた。
大きな蟲の体に亀裂が入り、割れた破片が粉々になって消える。けれど、ごぽごぽと吐き出される泥が、すぐにその跡を埋めてしまうのだった。どろり、どろり、伸ばした節状の足あるいは手で、怜子を抱きしめるようにすると、さきほどの男のように、何処かへ引きずっていこうとする。
互いに伸ばした手は届かず、怜子が行ってしまう。頭では走って追いかけようと、駆け寄ろうとしているのに、足が動かない。
蟲に何かされたのか、臆病で保身的な自分のせいなのか、震えるばかりで一歩として前へ出ない。ま、待て、と掠れた声をかすかに漏らしながら、僕は犬畜生の如く四つん這いになって、わずかに前へ向かった。
その憐れで滑稽な姿をみて、潰れた人面のような何かが嗤う。そして、弾けた。
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