第8話 祓い

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第8話 祓い

 泥水のつまった水風船のように蟲が弾けた。  びちゃびちゃと汚ならしく、あたりに撒き散らされたのは、ヘドロの如きもの。腐った溝川(どぶがわ)のような匂いが立ち込め、その泥煙の向こうに真紀が立っていた。みたことがないほど堅く厳しい表情で、逆手に懐剣(かいけん)らしきものを握っている。  それを仕舞い込むと、足元に倒れていた怜子を抱き起こした。ほっとした様子の真紀の表情から怜子も無事なのだとわかった。  なにがどうとわからなくとも、真紀が助けてくれたことは確かだった。僕自身も真紀と怜子の元へ向かい、そこで、ほっと息をついた。  けれど、ついた息と入れ替わりに、再び、腐った溝川(どぶがわ)のような匂いが立ち込め、ごうごうと炎の音が満ちて。気付くと、頭上から、べちゃり、べちゃり、ヘドロが落ちてくる。それは着物を濡らし、肌を濡らす。熱くもないのに、じゅうじゅうと肌を灼く。  蟲たちが僕らを囲むようにしていた。それぞれの蟲の人面がいっせいに(わら)う、(わら)う、(わら)う。  真紀が懐剣を取りだすも、からころと取り落としてしまう。  その手をヘドロが灼いたのだ。むろん、真紀だけじゃない。怜子や僕の体にも容赦なく落ちかかり、動けぬうちに全身を灼かれてしまう。熱もなく、ただ、酸のように、じゅうじゅうと肌を灼いていく。両手で頭を覆い、真紀と二人で怜子をかばうのが精一杯だ。ヘドロは、まるで生き物のように、肌の奥へ奥へと沁みこんでくる。激しい痛みに続いて、両手の感覚も両足の感覚も失われていった。  このまま三人ともども蟲の餌食かと思えたとき、蟲よりもなお背筋を震わすような気配があり、地面に丸まったままの視界に、黒い着物の裾からのぞく真っ白な素足が映りこんだ。  御屋敷を訪ねるようになって長く没交渉だった女当主のもの。相応な歳であるのに、かえって若返ってでもいるほどに美しい素足だと、場にそぐわないことを思わされた。  このときの感情をどう言えばいいか。安心を与えてくれたわけではなく、さりとて、恐怖というのでもない。やたらと圧倒される思いだったというのが近いか。  ぱしり、と軽く物の弾ける音がして、いく匹もの蟲たちが霧散した。音もなく、風に溶けるように消え失せたのだった。 「……御当主様」  危ういところを助けられたというのに、震えるような真紀の声だ。女当主は、僕に背を向けて、真紀とむかいあっている。 「愚か者め。これらは中身のない影のようなもの。そんなものに気圧(けお)されるとはな」  言いながら一歩つめよる。土塀の際まで真紀を追い、そもそも、と言葉を続けた。 「そもそも、怜子の勝手を許したのは、おまえであろう。無断で出て行くのに、気もつかなかったとはいわせんぞ。きつく叱りおいてこそではないか。のう、真紀よ」  さらに一歩、迫られて真紀の背が土塀に突き当たった。 「おまえのような輩は、当家には不要よ」  お許しを、と真紀が謝罪の言葉を絞りだしたとき、女当主はそれを聞くともなしに応じて後ろを振り返った。視線の先、闇の奥から、ずるずると音を立てて、さきほどの蟲どものような下賤な気配とは異なる(おそ)れを含んだ気配が近づいてきていた。  女当主が気配に向かって真っ直ぐに立ち、黒い着物が闇に溶けながら浮かびあがる。 「火伏せりか。ちっ、おかしなやつを引き入れよって。わしが(はら)う。真紀、怜子と小僧をおとなしくさせておけや」
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