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ミツリというかレクテンの気が済むまで洗い上げた髪。
失われた油分をトリートメントで補い、
タオルでまとめ上げて大まかな水分を吸い取る。
後でオイルとかミルクとか色々塗られる。
別に嫌ではない。
「先に乾かしても良いのだけれど──」
「水が抜けるまで待ってるのも無駄だねぇ。
その間に顔剃りしておくれ」
「湯冷めしない?風邪引かないかしら?」
「いくら何でも平気だよぉ、
ほんの十五分かそこらじゃないか」
「それもそうね」
じゃぽっ、じゃぱぱぱぱ──
シャワーの湯を作るのに使った熱湯の水がめ、
その底に沈んでいたフェイスタオルがひとりでに浮き上がり、
かめの上で勝手にねじれておしぼりになった。
熟練してみれば『テレキネシス』はつくづく便利だ。
こうして素手では触れないものを自在に操れる。
平時『テレポート』は案外使わないレクテンだが
『テレキネシス』はばんばん使う。
近頃の彼女が日頃の食事の仕込みをしている台所では
鍋や食材がびゅんびゅん宙を飛び交っている。
魔女を志す身として、ちょっぴり妬ましい。
「上手いもんだなぁ」
「タオルを絞るくらい、ミツリさんでもできるでしょ」
「まぁねぇ。……あのお鍋をいくつも飛ばすやつ、
どうやってるの?コツを教えてよ」
「ああ、あれ。多数の力場を同時制御するのは私も練習中よ。
仕込み中のあれは、単に大きな力場の中に
鍋をいくつも沈めて泳がせているだけ。
それなら操る力場は一つで済むしね」
「はっ、その手があったか」
「うっかりするとすり潰してしまうから
練習には頑丈な石とかがお勧めよ……
はい、タオル置くからね」
人外の力で絞られたカラッカラのタオルが
ぽふりとミツリの顔面にかぶせられる。
即席の蒸しタオルは一瞬だけ熱いが、
すぐに外気の冷たさに熱を奪われ、
みるみるうちに冷めていく。
温度はちょうど良くなるものの、少し残念だ。
心地良い熱さを味わいたい気分であった。
「熱くない?」
「大丈夫。レクテンちゃんが思ってるより
ずっとすっげぇ勢いで冷めてる」
「次からは二枚重ねも検討するべきね」
コポポポポ……
視界を奪われたミツリの耳に届くのは、
レクテンが陶器の中のシェービングソープに湯を注ぐ音。
これを専用の太い筆で掻き回すと
熱くてきめ細かい泡が立つ。
タオルで蒸して柔らかくなった顔の産毛に、
それをまんべんなく塗り広げていくのだ。
「んぅ……」
ほかほかの筆が顔を撫でた時、ミツリはわずかに声を漏らした。
香りの良い泡で顔面を包まれるのは
それはそれで気持ち良いものがあるが、
残念なのはタオルと同じく、この泡も結構な勢いで冷める点である。
素直にストーブを炊いた土間でやるべきだったかも知れない。
失敗したかも知れないが、まあ良い。
お楽しみはここからだ。
泡が目に入らないよう薄目を開けると、
レクテンは折り畳み式の剃刀を広げるところだった。
それは手入れだけは欠かさずしていたものの
レクテンがこの家に来るまではろくに使われることもなくなっていた
師の毛を剃り、師に毛を剃ってもらった
思い出の品である。
「顔剃りと言ってな、眉を剃り、ヒゲを剃り、
顔全体の産毛を剃る。
美容室じゃやってくれないとも聞くが、
実際のところは知らん。
俺、床屋しか行かなかったし」
師ユータローが元気だった頃は、
互いの髪は互いが整えていた。
もちろん調髪は素人のユータローであったが
「髪は女の命だからな……!」と
かなり真剣に丁寧にやってくれたので
ミツリが自分一人で切るよりはだいぶましな仕上がりだった。
ユータローがかつて日本で受けた理容店のサービスを
素人なりに頑張って真似たものがミツリの記憶に刻まれ、
それはレクテンにも受け継がれている。
記憶が確かなら、剃刀は三代目だ。
最後に召喚したのは師が決定的に体調を崩す直前だった、
それから十年以上経つわけだが
何せその間はそもそも使っていなかったので
刃は痩せておらず、新品に近い。
良く手入れされた刃には割と厚みがあり、
肌当たりは優しくミツリの産毛を泡とともに剃り落としていく。
所詮剃っているのは産毛だ、
剃毛らしい感触があるわけではないが、
鋭い刃が肌をかすめていくのは不思議な快感がある。
例えるならば羽虫が這い回るような──
我ながら何とも例えが悪く、不快ですらあったが、
実際にはそれは矮小な虫けらではなく
大好きな人が細心の注意を払って操る
良く手入れされた道具である。
愛を込めて撫でられているのと変わらない。
声を出したり口を開いたりはしなかったが
どうしてもこらえ切れず、ぴくぴくと表情筋が震えた。
「我慢、我慢よ……」
レクテンのささやき声が耳に甘く届き、
すっかり冷えた泡が剃刀で取り除かれると
そこに空気の流れと陽光の暖かさを感じる。
眉の下、眉間、頬、顎周りまでしっかりと剃り上げたあとは
再び湯で絞り直したタオルで顔を拭き、
普段使っているものより強めに肌を保護する
ペースト状の保湿剤を塗り伸ばす。
少しペとぺとするのが鬱陶しいものの、
香りが良いので嫌いではない。
姿見で見る己の顔は、産毛を剃り除いたせいだろうか、
心なしか肌の色が明るく映った。
「うむうむ、良い感じ。
いつもながら良い仕事だよぉ、レクテンちゃん」
「お褒めに預かり光栄ね。
それじゃ、後は髪を乾かして……
その後もう少し付き合ってもらえない?」
「お?」
何事かとレクテンを見上げれば、
彼女は苦笑とともに自分の耳を指差していた。
「少し大きいのが覗いているのに気付いてしまって。
せっかくだし、耳掃除をさせてもらえないかしら」
「そんなの、私が断るわけないじゃん」
急に耳が気になってきた。
もちろん気のせいである。
レクテンが指した右耳に急に違和感が出てきたが、
そう言われるまで本当に何ともなかったので気のせいである。
「そうと決まれば早くしよう、
急いで髪を乾かしておくれ。
あ、耳の中の獲物を吹っ飛ばさないように注意してね。
そうだ、もう乾かし終わったら
このまま椅子でやっちゃってよ。
お師匠様が、一部の床屋じゃ耳も掃除してくれるらしいって言ってた気がする。
それを体験してみようじゃないか」
ぱたぱた足を振って鼻息を荒くするミツリに、
レクテンはドライヤーを用意しながら苦笑いを返した。
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