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「忘れもしない何年か前のいつか」
「忘れているじゃないの」
髪質をより良く保つ各種の化粧品を使いつつのドライヤーを終え、
耳かきセットを持って戻ってきたレクテンに切り出した一言は
ただの一瞬の躊躇もなく切って捨てられた。
この打てば響くような会話が小気味良い。
「わはは、まぁ内容と耳かきの感触は覚えてるから。
そう、思えば初めてレクテンちゃんに
耳かきをしてもらった時も、
こうして座ったままだった」
「そう言えばそうだったかしら。
……思い返してみると、あの頃の私は
とにかくミツリさんに近付こうとしていたわね、
鬱陶しいくらいに」
「物理的にねぇ。
なぁに、私も嫌じゃなかったからセーフ。
あくまで両者合意の上。セーフセーフ」
「ありがとう、多少は気が楽」
「うむ。……ああして座ったままされる耳かきは
慣れ親しんだ膝枕とは違った緊張感があった……
例えるなら、まさに仰向けでしてもらうシャンプーのような」
「何事もそうでしょうけれど、
普段と環境を変えた新鮮さというのはあるわよね」
「ね。耳かきという業を純粋に突き詰めると
膝枕とは不純物というか、邪道なのでは?
とか思ったり」
ミツリが今思いついた心にもないことを言えば、
耳かきを一本つまみ上げたレクテンが「あら」と声を漏らす。
「レクテンちゃん?」
「ミツリさんの希望は叶えてあげたいけれど、
できれば膝枕はやめたくないわね」
「ほほう。私に触れるから?」
「ミツリさんが触ってくれるからよ。
すっかり力を抜いて私に身体を預けてくれるのが
信頼されている実感があって好きなの」
「次はまた膝枕でお願いするね」
「承ったわ」
可愛いなこいつ。そんなことを言われては
また柔らかな太ももに寝転ばざるを得ない。
膝枕が不純物とか、そんな馬鹿な話があるものか。
むしろ膝枕にあらずんば耳かきにあらずまであるだろう。
「さて、では手早く済ませていきましょうか」
「それはダメだ、やるからにはじっくりよろしく」
「ふふ、大丈夫よ、急いで手を抜いたりはしないわ」
レクテンの耳かきが産毛をかすめて右耳の穴に入り込む。
普段のそれと比較して、やや動きが速く、迷いがない。
大きなものが見えた、と言っていたが
どうやら比喩でなく獲物ははっきりと視認できるようだ。
かさっ、くしゅ──
思わず喉奥で咳き込むような声を発してしまう。
完全に剥がれた薄い膜が耳毛の支えで浮いていたようで、
それを耳かきですくい取った中途半端な刺激が
ミツリの耳の中に耐え難いかゆみを生み出した。
早く掻いてもらいたい。
だが、ここは我慢である。
「取れたわよ、ミツリさん」
「どれどれ」
捕獲したターゲットを見ずには終われないだろう。
レクテンが差し出した耳かきのさじを見ると、
そこには予想通り平べったい形状の大きな耳垢が引っかかっていた。
「ほぅほぅ、確かに、これは中々──」
ミツリが自身の老廃物に対して寸感を述べようとした刹那、
森の木々を掻い潜ってここまで辿り着いた北風が
ぴゅうとテラスを吹き荒び、耳垢を庭に吹き飛ばしてしまった。
「あっ!見失ったぁ!」
「いや、別に構わないでしょう」
「そうだけどぉ!……あぁ、触られた方の耳かゆい!
レクテンちゃん掻いて!」
「はいはい」
まあまあ惜しいとは思っているが、
さすがに失われた耳垢を探して拾い集めようとまでは思わない。
未だかゆみを訴える耳を掻いてもらうことにする。
かしゅかしゅかしゅかしゅかしゅ……
レクテンの手が小刻みに動き、
それに合わせてさじが耳の中をまんべんなく掻きほぐす。
外気の冷たさもあり、いつも以上の清涼感を伴って
かゆみがスーッと消えていく。
「ふぅ……あ、そこあたり集中的に」
「了解。こんな感じでどう?」
「良い感じだよぉ。……しかし、屋外は
耳かきには向かないかもねぇ」
「ミツリさん、成果を確認したがるものね。
うん、他に目立つ汚れはなし。
反対側をやるわよ」
かり、こり、こしゅこしゅ……
左耳の中で耳かきがうごめく音を意識して無視し、
掃除したての右耳で周囲の音を聴く。
家を挟んで反対側の庭でユーアたちが戯れる声、
そして風の音が大きく聞こえた。
冬の風は不思議と音からして冷たい。
ぴゅうぴゅうと、夏場とは明らかに違う音を立てて吹く気がする。
左耳を引っ張るレクテンの指も、いつもより冷たい。
が、それが不快かと言えばそんなこともない。
徐々に重くなっていく体は座り心地の良い大椅子に沈んていくが、
気温の低さのせいか意識自体は冴え渡り、
リラックスする体と心をはっきり自覚することができた。
知らず閉じてしまっていた目を薄く開ける。
見慣れた森、代わり映えのない庭。
ミツリが慣れ親しみ、また愛した景色である。
良い気分だ。
まるで時間の流れが遅くなっていくかのよう。
「いい気分だなぁ」
実感をそのまま口にしてみれば、
レクテンがふっと微笑む息遣いが聞こえた。
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