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私の仕事
「どうしたの、山下さん?」
「先輩、私、インド行きが無くなったんです」
「あなた何をしたの」
「何もしてません」
製菓会社のオフィス。山下文香は席に座った。隣の席の既婚者の清原洋子は驚きで手を止めた。文香はため息混じりで答えた。
「インドは治安が不安だから。女の私じゃダメだって話らしいいです」
「誰がそんなことを」
「カバディ関係者みたいですよ」
「クライアントが?それなら、仕方ないけど、女じゃダメなんて、時代錯誤よね」
そう言って清原はダイエット飲料を飲んだ。
「でも確かに。言われてみれば、確かにインドは治安が悪いとは思う」
「でも。そんなことは最初からわかっているはずです。私を指名してきたんだから」
この仕事のために用意をしていた文香。ただ落ち込んでいた。気を取り直そうと椅子に座った文香。それを清原は励ました。
「でもさ。女が理由ってことは。あなた自身が気に入らないから断るって話じゃないんでしょう?だからそんなに落ち込むことないわよ」
「でも。それは嘘かもしれないし」
「終わった事でしょう?気にしないことね?で、同行するのは誰になったの?」
「上原さんです」
「上原さんか」
ベラランの男性。これに二人は一応納得した。そして文香は忘れるように他の仕事に向かった。
山下文香は、製菓会社の健康食品部門の社員である。少子高齢化のため、お菓子を食べる子供が減る将来。これを見越した会社は、現在はスポーツ食料や健康食品に力を入れていた。
栄養士の資格を持つ文香の担当はスポーツ選手の栄養管理。カロリー計算と運動量とのバランス。これを大学で研究していた彼女は、研究テーマのスポーツをマイナーな『カバディ』というインド発祥のスポーツにしていた。
それは他の人が研究していないことが理由としてあるが、ある人物の影響のせいだった。
高校時代。文香の学校にはカバディ部があった。大会で負け無しの彼らの主将が文香のクラスの鬼塚だった。鬼塚は寡黙な男。そして体を鍛えあげて筋肉隆々。そして格闘技であるゆえに、圧倒的な威圧感を持っていた。
クラスの女子があまりの怖さに声も掛けられない雰囲気の鬼塚。文香は修学旅行で同じ班になった。ここには他のカバディ部の男子がおり、寡黙な鬼塚の通訳をこなしていたが、神社を見学している時、文香に異変が起こっていた。
◇◇◇
……お腹が痛い。まずい。
突然の月経痛。これを同じ班の男性に言えずにいた文香。必死に堪えていたが、流石に神社の長い階段の前で脂汗を拭った。
「ごめん。私、お腹が痛くて、ここで待っていてもいいかな」
「え。文香行けないの?」
女子も心配そうに見つめていた。文香はそばの石のベンチに座った。
「私はいいの。みんなで行ってきて」
「でも」
この神社は恋愛成就のお守りや、フォトジェニックな景観が有名だった。女子達が行きたがっていた事、文香は十分知っていた。さらに。この班にいる男子に行為を寄せている女子がいることも知っていた。
「本当にいいの。私、ここで待っているから。時間も気にしないで」
「そう。でも、一人では」
「平気だよ」
「……俺が残る」
「え」
驚くことに、ここで鬼塚も残ると言い出した。通訳のカバディ部の野原は驚いた。
「え。お前マジで言ってんの?」
「ああ。良いから早く行ってこい」
確かに時間が減っていく。こうして文香と鬼塚で待機となった。
「ごめんね。鬼塚君に付き合ってもらって」
「トイレはあっちだ。俺はここにいる」
「は、はい」
まるで陸軍の司令塔状態の鬼塚であったが、この好意に甘えて文香はトイレに向かった。トイレで一息をつき出てきた時、持参した薬も飲んだが、まだ腹は痛かった。すると、そばにいた鬼塚が参道の人並みに消えてしまった。
……鬼塚君もトイレかな。
すると。彼は紅葉の道を戻ってきた。
「これを」
「カイロ?」
「腹を温めろ」
「ありがとう……あ、開かない?」
秋の道で少し冷えた私。手が悴んでいた。ここで鬼塚は無表情でこれを開封してくれた。
「これ、あ。まだか」
渡そうとしたが。彼はその大きな手にカイロを入れた。そして温めてから文香にくれた。
「あったかい」
秋風の参道。文香の背後に立っていた。文香はベンチの隣を進めた。彼は首を横に振った。そして二人は紅葉色の秋の中、同級生を待っていた。何も話さない、ただそばにいるだけ。でも文香には異様なまでの心地よい安心感があった。
やがて仲間と合流した文香と鬼塚。後にカイロの料金を返した時、ありがとうと言っただけの関係の二人。でも文香は彼が熱中するカバディが気になっていた。そして大学でこのスポーツを研究し、それが元で現在の会社に就職ができた。
そんな彼女に来ていた仕事、それはマイナーなスポーツ、カバデイ選手の国際強化試合の同行だった。文香はインドへ赴き、選手のために栄養指導と調理をする予定だった。
「あ。山下さん。本を落としましたよ、はい、これ」
「すいません。ありがとうございます」
デスクから落としてしまった本。それはカバディにまつわる本だった。これを手に取った文香、ため息混じりでこれを机にしまった。
そして帰り道、星を見上げた。
……あんなに下調べしたのに。無駄になっちゃったな。
過酷なスポーツのカバディ。未知なるスポーツを知るために文香は日本の試合を個人的に見学に行っていた。日本では企業チームで存在しているチームの試合、文香はプライベートで取材に行っていた。時には選手に質問をし、彼らの運動について調べていた。これが無駄になったこと、悲しく思っていた。
すると。この時、スマホに連絡が来た。先輩の上原だった。それによると、急に指示された彼も困っており、文香に助けを求めてきていた。
文香は翌日。会議室で上原とカバディのインド大会について引き継ぎをしていた。
「こんなに調べていたのなら。このまま山下さんが行けたらよかったのにな」
「でも、女は困ると言うなら、それで終わりですよ」
「インドでも確かに治安が悪いスラム街があるからな。男の俺だって怖いけど、まあ、今回は仕方ないか」
そう言って上原は資料を確認した。
「しかし、こんなに調べてあるなら助かるよ。私はこのまま使わせてもらうよ」
「はい、せっかくですので」
登録選手の身体データ。そして試合中の選手を見た文香の所見も細かく記してあった。これに上原は感心していた。
「でもそれはまだ選手の嫌いな食べ物とか、確認できていないのありますけど」
「流石にそれはこっちでやるよ。ありがとうな」
上原はついこの前までバレーボール選手の付き添いをして多忙。それを知る文香、インド行きを先輩に譲り複雑な思いだった。
そして。上原はインドへ旅立った。
◇◇◇
「山下君!山下君はどこだ」
「は?はい、ここですけど」
二日後のオフィス。文香は高齢者向けの栄養食材の試食をしていた。そこに上司が汗を拭きながらやってきた。彼女は会議室に移動した。
「実は、インドにいた上原君が。交通事故で怪我をしたようでね」
「うわ?大丈夫ですか」
「命に別状がないそうだが」
現地にいるスタッフとパソコンで通信した文香。そこには大会関係者が写っていた。
「上原さんは容態は?」
『腕の骨折です。命に別状がありません』
「腕の骨折か、あの、仕事の方は支障がないのですか」
この質問。相手は首を横に振った。
『利き腕のようで調理が無理ですね。どうしましょうか?弱りましたよ』
ここで。文香の上司が返事をした。
「とにかく。ご家族に連絡をして、なんとか代わりのものを手配します。では」
そう言って通信を切った。彼は文香を見た。
「ということだ。すまないが山下君、インドに行ってくれないか」
「でも。相手の方が」
「今はそんなことを言ってる場合じゃないだろう。それに君が行くことは、私の方で承諾をもらっておくから」
静かなオフィスはこうして慌ただしくなった。文香は仕事をそのままに、インドに向けて出発した。
「うわ?暑い」
「あの。日本からお越しの山下文香さんですかな」
「はい。カバディの人ですか」
ええ、と迎えにきた全日本のジャージ姿の初老の男性は文香の荷物を持ってくれた。
「でも、あの……プロフィールの写真とずいぶん違うような」
「そうですか?」
そういうと、黒いジャージ姿の文香は、太陽を見上げた。
「来る前に髪を切ったので、そのせいですかね?」
インドの灼熱。コンクリートの空港、ロングヘアをバッサリ切った文香は関係者と一緒にタクシーに乗り込んだ。
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