熱い

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熱い

「それにしても。本当に暑いんですね」 「自分も三日経ちましたが、その言葉しか出てこないですな」 日本カバディ協会の役員、大迫はそう言って窓の外を見た。都会の喧騒を思わせるニューデリーのビル街。しかし牛や犬がゆったりと歩いている光景はここならではのもの。エアコンが聞かない車内の大迫は話を始めた。 それは怪我をした上原は入院中で無事であること。その間、カバディ選手は食事で苦労しているということだった。 「我が社の上原が迷惑かけてすいません」 「いいや?あれは向こうがバスにぶつかってきて、上原さんのせいじゃない。向こうが悪いんですよ」 移動中のバスの事故。屈強なカバディ選手は無事であったが、栄養管理の上原だけが負傷した事故。自身もかつては選手だった大迫はすまなかったと頭を下げた。その時、文香は大迫の指を見た。 「あら。怪我ですか」 「いや。慣れないことをやりまして」 「もしかして。大迫さんが食事管理をしていたんですか」 他に誰もいなかったと苦笑の大迫。文香はため息を吐き、大迫に打ち明けた。 「大迫さん。最初にお話ししますが、私は仕事で参りました。最初は治安が悪いと言われて女の私は断られたんですけど」 「すいません!それは私も聞いています」 「良いんですそれはもう。でも、私、その事で皆さんに心配かけたくないと思っています」 化粧のない顔。文香は力強く話した。 「それに、上原の件もありますし。私、これから頑張りますので、よろしくお願いします」 「こちらこそ」 そんな話の中、タクシーはとある建物に到着した。ここが滞在している国際センター。中には宿泊施設と練習場があるということだった。 室内は外よりは涼しい程度。まずは病院にいる上原の見舞いに行こうかと思っていたが、文香は練習している選手達を見てしまった。 ……こんなに熱いのに、あんなに運動を? インド選手を相手に激しい運動。それに暑そうな練習場。立ち止まった文香に大迫はつぶやいた。 「もうこんな時間か。実はもうすぐ昼飯なんですよ。仕方ないので。毎回、男スタッフで作ったカレーになっているんですが」 「え?料理場はどこですか?」 それでは栄養が足りないはず。それに選手一人一人、栄養補給が異なるはず。文香は自分の荷物から白衣を取り出し、急いで料理場に向かった。 そこでは選手のマネージャーの佐藤がカレーを作っていた。 「あ、もしかして。栄養士さんですか」 「はい。山下と申します。代わりますね!」 任せていられない文香。カレーはこのままで副菜を作り出した。上原が準備したのは自分が選んだ食材のはず。それに文香は事前に全ての献立を上原と決めていた。飛行機の中でこの緊急事態を想定した彼女は、手早くそして、必死に大量の昼飯を作り上げた。 「はあ、はあ」 「美味しそうですね。さすがプロだ」 一緒に料理を運んだ佐藤は感心していたが、ふと止まった。 「あ、山下さん。選手が来ましたよ」 「え?」 「みんなに紹介しますよ」 「いえ?結構です!私は向こうにいますので、勝手にサーブして食べてください」 「え。でも」 ぞろぞろとやってくる足音。文香は逃げるようにキッチンの奥に引っ込んだ。 ……女ではダメなんでしょう?全く、失礼ね。 女ではダメだと言ってきたカバディ関係者。文香はまだ根に持っていた。女らしいのがダメだと言われて気がした彼女。あまりの立腹にロングヘアもバッサリ切り、今は料理用の白いキャップをかぶっていた。白いマスクではもちろん、メイクなどしていなかった。 「うまい!やっとまともなものを食べた!」 「代わりの人が来たのかな」 そんな声がしたが、文香は影に徹し、自分を否定した彼らに会うつもりはなかった。 ……そうだ。こんなことをしていられない。夕食を考えないと! インドに来る前の飛行機内でも選手一人一人のデータを読んでいた文香。同僚の不始末をカバーしないといけない。さらに女であることを侮辱された思いもあり、名誉挽回のため夕食に力を入れていた。 やがて、食堂から男たちの声が消えた。おずおずと顔を出すとそこには大量の空の皿が残されていた。 ◇◇◇ 「なあ。これってやっぱり代わりの栄養士が日本から来ったってことだよな?」 「助かったよ。いくら本場のインドにいるって行っても。こう、三度三度カレーなんて、ありねぇもんな」 「そうか?俺は毎食カレーでも良いけど」 「黙って食え」 主将を務めている鬼頭輝(きとうあきら)はそう言って仲間の会話を締めた。 彼は日本屈指の最強のカバディ選手。無口で淡々としている彼は静かに食事を終えた。そしてこの休憩の時間、マネージャーの佐藤と大迫と打ち合わせをした。 「明日の練習試合に関しては以上です。僕からはそれだけですが、大迫さんは?」 「ああ。監督とコーチは明日の対戦チームを画像で観ているから。気になるなら鬼頭も後でみんなと」 「それよりも。日本から栄養士が来たと思うんですが」 強面の彼。一瞬。空気がピリとした。 「自分は挨拶をしたいんですが、どちらにいるのですか」 「あ、そのことだけど」 「疲れているようなんだ。明日にでも会わせるよ」 大汗の佐藤と笑顔の大迫。鬼頭は鋭く睨んだ。 「そう、ですか……」 「ああ。それよりも!腕の調子はどうなんだい?痛みがあるって話だったよね」 話をはぐらかした佐藤。鬼頭も解せない様子であったが、彼らの様子で他の用事を優先した。 鬼頭は実業団の選手。会社員であるが実際は試合中心であった。親がカバディ選手という環境の中、彼は生粋の選手。その恵まれた体格と恐ろしくストイックな性格。それゆえに選手仲間にも厳しかった。 彼は今回の大会に力を入れていた。そのためサポートの栄養士もプロを頼んだのも彼だった。しかし、推薦されてきたのは女性栄養士。しかも練習を見学に来たのは美麗な元同級生だった。 ……どうして、彼女なんだ。 彼自身、カバディで勝つことしか頭になく基本、女性には無関心であった。しかし、彼の周囲のカバディ選手が女にうるさかった。さらにインドに何度も来ている彼は、外国の危険も知っていた。 ……とにかく。女はお断りだ。 彼女も心配であるし、彼女を気にする選手達のことも嫌だった。今回の国際試合に集中したい鬼頭。今は明日の試合のことを考え、トレーニング室へと向かった。 そして夕食。そこにはたくさんの料理が出されていた。 「ん。これは?」 「ああ、鬼頭。これはメインの食事の他に、各自、食べて欲しい料理だそうだ」 「ほお」 その皿には選手の名前が書いてあるメモがあった。確かに体の大きい選手、小柄でスピード重視の選手では摂取する栄養が異なる。それよりも美味しそうな食事を前に、彼らは黙々と食べていた。 「うまい!やっぱり日本食は最高だな」 「お前、毎食カレーで良いって言ってなかったっけ?」 「すげ!俺が野菜嫌いって知ってるんだな。これ果物でビタミンが」 「黙って食え。終わったらミーティングだ」 鬼頭の声で食堂はシーンとなった。そして、終了後。彼は仲間を集めてミーティングをした。この夜はこれで終わった。 翌朝。典型的な日本食。それに感動した選手達であったが、鬼頭は一緒のテーブルになった佐藤に話した。 「今日こそは挨拶したいので、時間をお願いします」 「あ、あのさ。そのことだけど」 難しい顔の鬼頭。これに佐藤は汗を拭いた。 「栄養士さんは今日は入院中の上原さんのお見舞いに行くそうなんだ。だから、その後になるかな」 「自分は試合の後なら構いません」 「わかった。そう、伝えておくね」 そそくさを席を立った佐藤。この話を聞いていた中学からの付き合いの野原は納豆をかき混ぜた。 「もしかして。代理の栄養士さんのこと?」 「ああ」 「俺、見たぜ」 彼は白米に納豆をかけた。 「小柄な若い人でさ。廊下の奥にいたんだけど、俺を見て隠れちまったよ」 「本当に栄養士か」 「だって白衣着てたし。あ?俺、味噌汁おかわりしよっと!」 不可解な鬼頭であったが、この日は試合の日。これから集中し試合に臨んだ。 そして帰ってきた。 「おかえり!お疲れさん。風呂にどうぞ」 「ん、良い匂い。これはニンニクの匂いだ!」 「どけ!俺が先に行くんだ」 我先にと食堂を目指すカバディ選手。しかし。最後に現れた鬼頭を見て、佐藤は背を向けた。しかし、日本最強の守備(アンティ)の鬼頭に肩を掴まれた。 「ひい!」 「佐藤さん。栄養士は?」 「あ。ああ。そうだったね」 「今夜こそ、挨拶をしたいんです」 「そのことだけどね」 佐藤はゴソゴソと何かを取り出した。 「これを、君に」 「ノート?」 「ああ。これに色々書いてあるそうだから、それを読んで欲しいそうだ」 「でも、直接、あ」 佐藤、逃げるように廊下の奥へ去った。残された鬼頭、とりあえずペラとノートをめくった。そこには細かく各選手の栄養指導が書いてあった。 「鬼頭!早く来いよ。料理が無くなるぞ」 「今行く」 ……くそ!まずは栄養補給だ。 このノートをバッグに収めた鬼頭。こうして食堂へと向かった。
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