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明
冬が終わろうとしている、三月の末。
私は微妙な日本語を話すベトナム人の男性と、川沿いの桜並木の下を、肩を並べて歩いた。
同じ意味の名前を持つ、ひなたのように穏やかで明るい人。
小柄な彼と私は肩の高さが同じくらい。だから時々手の甲がちょっと触れ合う。
最後に手を繋ぎたい。
でも手を繋いだら……彼の手の温もりを感じたら……。きっと涙が止まらなくなる。
「アカリサン。ボクはもう一人で行けます。ボクは方向がわかります」
受験英語の日本語訳みたいな、彼の日本語。
「ミンさん……」
私は彼に誓わなければならないことがある。
ミンさんと初めて会ったのは三年前。
あの日も桜が咲いていた。
ワンルームのアパートの、下の部屋に引っ越してきた外国人を、世話好きの初老の大家さんが連れてきた。
「ボクはグェン・ヴァン・ミンです。ベトナムから来ました。ボクの仕事は溶接です」
スラスラと喋る。決して『カタコト』というわけではない。なのになぜかしっくりこない日本語を話すのが印象的だった。
「ミンさんはね、教育実習生なのよ」
大家のおばあさんは彼を孫のように自慢した。
「違います。技能実習生です」
ミンさんは苦笑して訂正した。何度目かの訂正なのだろう。
「そうそう、それ。彼女はね、明ちゃん。あ・か・り。明るいって意味の明ちゃん」
大家さんがそう紹介すると、彼はなぜかパアッと花が開くように笑った。
なぜかわからないけど、嬉しそうだ。
それだけで、私も嬉しかった。
ミンさんは小柄で、細い人だった。そしていつもペランペランのTシャツを着ていた。長袖か半袖かの違いくらいはあっても、布が薄くなるほど着倒しているのは明らかだった。
朝、私がまだ朝食を食べている時間に、一階のミンさんの部屋のドアはバタンと閉まる。
帰ってくるのは夜の八時頃のこともあるが、十時過ぎのことが多かった。
外国人技能実習生については、ミンさんと知り合う一年前、良くない記事がネットで出回っていたので、私はミンさんの帰宅が遅いと気になって仕方なかった。
外国人技能実習生は、なんらかの技術を学び、母国の発展のために活かす目的で来日する。
母国の送り出し機関に支払う手数料や渡航費用などで、借金を作って来日している。母国の家族に仕送りもしなければならない。
外国人技能実習生を受け入れる認定企業は、契約に基づき、最長五年かけて、技術を習得させることになっている。
しかし実態は悲惨なものらしい。
認定企業は外国人技能実習生に技術など教えない。人手不足のごみの分別だったり、ラインで流れてくる部品の組み立てなどを、ずっとやらせている。
しかも自治体が定める最低賃金よりずっと安い給料で。残業代など全く支払わない。
それでも母国で働いていたときの給料よりは高い給料を得られたり、来日する際に作った借金のことがあるから、実習生達は辞めることができない。
外国人技能実習機構という、彼らを助けてくれる機関がある。彼らはそれを知っている。
それでも申告することをためらう。
外国人技能実習機構に申告して、認定企業の認定が取り消されたら、その企業で働いている、すべての技能実習生が仕事を失うからだ。
他県に引っ越して、別の認定企業できちんと技術を教えてもらえて、適正な給料が支払われる保証はない。また引っ越す蓄えもない。
ほとんどの実習生は母国に帰るしか選択肢がなくなるのだ。
つまり、認定企業は彼らの弱みにつけこんで、安い給料で、奴隷のように長時間労働を強いる。
企業としては、安い給料で働いてくれるのだから、バンバイザイだ。
そんな記事が出回った原因は、日本を代表する、大手の企業で働いていた技能実習生が、失踪したからだ。
逃げた外国人技能実習生は、プラスチック成形の技術を習得するために働く契約を結んでいたが、実際は塗装検査をやらされていたという。時給は四百円程度だった。
同じ日本人が、そんなひどいことを外国人にしている。まるで奴隷制度じゃないか。
私はあまりの嫌悪感で、吐きそうになった。
しかし私にはなにもできない。私はなんの力も持たない、この国では低所得の、税金を払うくらいしか価値のない、ちっぽけな存在。
ただ、今、下の部屋に住むミンさんというベトナム人を気にかけるくらいのことはできる。
入梅が近い、五月の末。
貴重な晴れの日曜日。私はベランダの手すりに布団を干した。
洗ったシーツも干して、洗濯バサミで留めようとした。そのときだった。プラスチックの洗濯バサミは劣化していたらしく、留める部分を開くために親指と人差し指でつまんだら、パキッと折れた。
「うわっ」
折れた洗濯バサミはそのまま一階のベランダに落ちた。
あらら。ミンさん、起きてるかな。せっかくの日曜日に、寝ているかもしれないところ、折れた洗濯バサミの回収のためにチャイムを鳴らすのは申し訳ない。でもそのままにしておくのも失礼だし。手紙を書いて入れておくとか。ミンさん、日本語、読めるかな。
「アカリサン?」
迷っていると階下からミンさんが私を呼ぶ声がした。
ベランダから下を覗くと、ミンさんが軽く手を振ってきた。
「おはようございます。ピンチが落ちてきました」
習ったとおりの日本語を話すミンさん。
「ごめんなさい。取りにいきます」
「大丈夫です。ボクが行きます」
そう言うと、ミンさんは顔を引っ込めた。
ミンさんはすぐに来てくれた。
二階の私の部屋の前で、壊れた洗濯バサミを渡してくれる手を見て、違和感を覚えた。
小柄で、細い人という印象はあったけれど、こんなに骨と皮ばかり、という感じはしていなかった。
頬もこけて、目が飛びでそうなくらい大きく見える。
しかし、お金、ないの?とは訊けない。それは失礼だ。
「あの、ミンさん。一緒に朝ごはん、食べない?」
言ってから、『食べない?』は『食べない』と受けとるかな?なんて言えばいいの?などと迷ったが、ミンさんは
「いただきます」
ときれいな日本語を返してくれた。
お米は炊いてあったが、おかずがなかったので、慌てて作ることにした。
「お豆腐とわかめのおみそ汁、ハムエッグ。昨夜作ったレンコンのきんぴらはすぐ出せる。そんな感じでいい?ベトナム料理、私、わからなくて……」
ミンさんはそれを聞くとニコッと笑って、手伝い始めた。その動きがスムーズで、軽く感動した。
「卵、二個ずつね。ハム、全部使って。半分に切ってね」
私には少し量が多いが、ミンさんに沢山食べさせなくては、と思った。同じ量でないと、ミンさんが気にするだろう。
結局、私がおみそ汁を作っているあいだに、ミンさんがハムエッグを作り、レンコンのきんびらを小鉢に盛り付け、ごはんをよそい、お茶を淹れてくれた。簡単ではあるが、手際が非常に良い。
驚いていると
「ベトナムの人は、性別は関係ありません。みんな子供のときから、家を助けます。日本人はアカリサンのように驚きます」
と笑った。
ミンさんは鰹出汁のおみそ汁を
「おいしいです。ボクはおみそ汁が好きです」
と言って、おかわりをした。
小さいテーブルを挟んで、狭いワンルームで誰かと食事をするなんて、私には初めてのことだった。
それは少し気恥ずかしく、心臓が浮かれるようにドキドキし、楽しさと少しの緊張が混ざった、キラキラした時間だった。
「久しぶりに食事をしました。おなかがすいていました。アカリサンは優しいです。ごちそうさまでした」
ミンさんは食べ方がきれいで、品があって、きちんと手を合わせる人だった。
「久しぶりって……」
やっぱり食べていなかったんだ。
「仕送りしてるから、お金がないの?」
私は訊きにくいことを、やはり訊いてしまった。
「あ……話してはいけません」
ミンさんが困って俯いたので、私はわざとらしく話を変えた。
「あ、そうそう。ミンさん、日本語が上手よね。でも教科書みたいな日本語を話してること、気づいてる?」
「そうですか?日本語は難しいです。ボクは今、レベルがN3です。また試験があります。合格したいです」
外国人技能実習生は来日する前に日本語学校で勉強してくる、と聞いたことがある。N5という一番下のレベルの試験に合格してから来日するらしい。
「ボクは漢字が覚えられません。とても困ります」
ミンさんは照れたように笑った。
「ベトナムでは今はベトナム語を使いますが、昔は漢字を使いました。だからボクのおばあさんは漢字が少しわかります。そしておばあさんはボクにミンという名前をつけました。『明るい』という意味の漢字を使って『ミン』と読みます。アカリサンと同じ名前です。だからボクは『明』という漢字が書けます」
ミンさんはキラキラした瞳で、私を見つめた。
こんなにまっすぐで努力家の青年が、私と同じ名前。
大家さんに紹介された日、私の名前を聞いて、ミンさんがとても嬉しそうだったのは、こういうわけだったのか。
「私達、同じ意味の名前を持つ者同士ね」
ミンさんは、初対面のときと同じように、パアッと花が咲くような笑顔になった。
ああ、この笑顔は私の心をがっしり掴むなあ。
私はミンさんの素朴でまっすぐな人柄に、魅了された。
それからもずっと、ミンさんの帰宅は遅かった。相変わらず棒のように細い。何年着ているのだろうと思うような、生地が薄くなったTシャツを着ている。
私は休日に一緒に食事をするくらいのことしかできなかった。もちろん外食なんてしない。私も経済的にはギリギリだった。
七月の最初の日曜日。私はミンさんから初めてデートに誘われた。
「商店街の『タナバタ』というお祭りに行きたいです」
私は快くガイドを引き受けた。
「広場にある竹にお願いを吊るしたいです」
「よく知ってるね」
「ベトナムにも『タナバタ』があります。タッティックといいます。昔の恋人の幸せを願う日です」
「え……ああ、そう、なんだ」
私の中ではミンさんはかなり『特別枠』に入ってきていたので、若干ショックだったことは否定できない。
デートに誘われたんじゃなくて、道案内だけだったのかな。
商店街の真ん中にある広場は賑わっていた。出店がズラリと並び、噴水の前に短冊を書くコーナーが設けられていた。背の低い竹が三本並んで立てられていて、既に色とりどりの短冊でいっぱいだった。
私達はペンを借りて、私はピンクの短冊、ミンさんは黄色の短冊に、それぞれ願い事を書いた。
私はさっさと書いて、細い枝にくくりつけた。
『ミンさんの夢が叶いますように』
私はミンさんが日本語を書くのに苦戦している姿を、離れた場所から眺めていた。
字を間違って、もう一枚短冊をもらって書いている。七夕祭実行委員の腕章をつけたスタッフさんに字を教えてもらいながら、背中を丸めて書いている。
その一生懸命な姿を、愛おしい、と思う。
まっすぐで、努力家で、食べ方がきれいで、花が開くように笑う人。質素な食事をごちそうのように喜んで食べてくれて、私を優しい人だと言ってくれる人。
神様、どうかお願いします。ミンさんが溶接の技術を身につけて、無事にベトナムに帰国して、ベトナムでラクな暮らしができますように。
祈ってからズキッと胸が傷んだ。
そうか。ミンさんはいつか帰ってしまう。ずっとそばにはいられない。
恋人でもない、ただの同じアパートの住人という間柄なだけなのに、私は失恋したみたいに苦しくて、涙が出そうだった。
ミンさんは竹に短冊をつけると、小走りで私のところに向かってきた。
「アカリサン、お待たせしました」
「ミンさん、なんて書いたの?」
「ナイショです」
「えー、じゃあ私も内緒にしよ」
「えっ……」
せめてミンさんが日本にいるあいだ、ミンさんのそばにいられますように。
私はそっと祈った。
それからも休日は一緒に私の部屋で食事をした。
暑い夏にはそうめんを食べ、秋には栗ごはんを作って、なんとなく失敗した。大晦日にはミンさんがおそばを茹でてくれた。
お正月の初詣に誘うと、ミンさんは
「寒いから絶対に行かない」
と譲らなかった。
コンビニは高いから、と安いスーパーやドラッグストアまで一緒に遠出した。
幸せな時間だった。
ずっと続くわけではない、と理解はしていたけれど、お別れはある日、突然やってきた。
ミンさんの話と報道の内容はだいたい合っていた。
ミンさんは大手のバイクメーカーで、溶接の仕事を学んでいた。ミンさんは雇用契約通りの仕事をしていたが、給料は自治体が定める最低賃金を大幅に下回っていた。
ミンさんはそれに気づいていたが、受け入れていた。
その会社では三十六人の外国人技能実習生が働いており、もし企業が認定を取り消されると、三十六人全員が職を失うからだ。
ある日、フィリピン人の実習生がどこかの居酒屋で自分達の現状の愚痴をこぼしていたところに、週刊紙の記者が居合わせていたことが始まりだった。
外国人技能実習生の悲惨な現状はまた記事になり、あっというまに拡散し、外国人技能実習機構の臨時検査が入り、厚生労働相と法務省が動き、あっというまにそのバイクメーカーは認定を取り消された。バイクメーカーは海外での信用を失い、輸出がストップし、三十六人の安い労働力がいなくなったので、操業に影響も出てきた。
外国人技能実習機構が必死に次の職場を探してくれたが、三十六人中、三十四人が母国へ帰ることに決まった。
「明後日の朝、出て行きます」
三月の下旬。ミンさんは、いただきます、と手を合わせたまま、そう言った。
外国人技能実習機構から、航空券が届いたのだろう。
「大家さんの息子さんが空港まで車で送ってくれます。ボクは朝、大家さんの家に行きます」
最後まで試験用に勉強した日本語のままだ。私はミンさんの話し方が好きだった。もうそれも聞けなくなると思うと、寂しかった。
「一緒にごはんを食べるのも、今日が最後か。明日、私、仕事だから」
「アカリサン、たくさん助けてくれて、ありがとうございました」
「いやいや、そんなこと……」
私達はその日、最後の食事をお互い無言で食べた。
ミンさんが旅立つ朝。
私は途中まで送ると言って、ミンさんと肩を並べて歩いた。
手の甲が時々スッと触れても、ミンさんは手を繋いでくれなかった。
そういえばこの一年、何十回も隣を歩いたけれど、一度も手を繋いだことがなかったな。一度くらい手を繋ぎたかったし、本当に一度でいいから抱きしめてほしかった。休みの度に、私の部屋で、二人きりで過ごしたのに……。
「アカリサン。ボクはもう一人で行けます。ボクは方向がわかります」
ミンさんは立ち止まって、そう言った。
「ミンさん……。私ね」
私はずっと思っていたことを、最後にミンさんに誓うことにした。
「私、ミンさんみたいな外国人技能実習生の味方になれる場所を作ろうと思ってる。今はまだお金がないから、実現するまでには何十年もかかるかもしれないけど。でも必ず作る。約束する」
ミンさんは少し涙ぐんで、手の甲で涙を拭った。
「アカリサン、これ」
ミンさんは鞄の外ポケットから黄色い紙を取り出した。それは見たことがある短冊だった。
『アカリサンのそばにいて、アカリサンを幸せにできますように』
下手な字。でもがんばって覚えた字。
「お祭りの最後の日、一人で広場に行って、もらってきました」
もう一枚、ポケットから出した、ピンクの短冊。
『ミンさんの夢が叶いますように』
あ、ダメだ。涙がこぼれる。
するとミンさんが手を伸ばして、私の頬に伝った涙を拭いた。温かい手だった。
これがミンさんのぬくもりなのか。初めて知った。
「約束します。いつか必ず、ボクは日本で暮らします。アカリサンのそばで、アカリサンを幸せにします」
今までで一番会話らしい日本語で、ミンさんは言った。
そしてミンさんは私に黄色の短冊を握らせて、ピンクの短冊だけを鞄のポケットに入れ、一人で歩き出した。
一度も振り返らないミンさんの後ろ姿を、私はしばらく見送った。
ミンさんと出会って三年。お別れをしたあの朝から二年。
あの日、見送った場所で、私は今日、同じ意味の名前を持つ、愛しい人を待っている。
桜の花びらが舞い落ちる。
私が彼と交わした約束は、まだまだ途中。
彼は私の隣で、一緒に夢を叶えるために、戻ってくる。
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