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八月一日午後三時、僕は親友の星野の部屋から空を見ている。晴れている。でも夕方、ゲリラ豪雨の予報が出ている。ゲリラ豪雨の中、バンジージャンプをしたらもっと怖いのかな、なんて僕は思う。汗が頬を伝った。それを想像したからじゃない。忘れていた約束を思い出したからだ。今年のゴールデンウィークの最中、二人で遊園地に遊びに行った僕たちはアトラクションを制覇した。そしてベンチに座って休憩しながらあることを約束した。夏休みの最初の日に親友の証としてバンジージャンプをする、と。予約は星野がすると言ってくれた。約束の日からもう十日は経っている。その間星野とは何度も遊んでいる。星野は怒りを隠しながら僕と会っていたのだ。何も言わずに。
星野との出会いは高校の入学式が終わった後だ。同じクラス、僕が前で星野が後ろの席だった。担任の話に瞼が重くなり机に突っ伏して寝てしまった僕の脇腹を星野が突いたのだ。
「おうふっ。なんだよお」
思わず変な声を上げた僕は笑いながら泣いていた。
「前から来てるプリント取りなさいよお」
僕の真似をして星野が言った。
「ごめんなさいよお」
前のやつに謝りながらプリントを取り後ろへ回す。
「平野、初日から寝るな」
担任が僕の前まで来て言う。クラスは笑いに包まれている。
「またこういうことがあったら星野が今みたいに起こせよ」
担任が今度は星野の肩をポンと叩く。さっきよりも大きな笑いが起こった。
「よろしくねえ」
僕は振り返ってへこへこと星野に頭を下げる。
「指を鍛えとくよ」
星野は人差し指で突く練習をしている。
それから何度も脇腹を突かれる内に打ち解けくだらない話を沢山するようになった。自然と居心地の良い関係が築かれていったのだ。
高校二年生になっても僕達は同じクラスになった。それにまた前と後ろの席同士。もしかしたら僕が居眠りばかりしているからそれを阻止する為に先生たちが星野とセットにしたのかもしれない。でも三年になっても同じクラスで同じ席順が良いな、なんて二人で話していたのだ。親友の証としてバンジージャンプに挑む。そう言えるくらいの仲に間違いなくなっていた。
約束のあの日、ぼくは家にいた。夏休み初日、たんまりある宿題は鞄に突っ込んだまま取り出そうともしなかった。でもそれは時間が経った時の自分がすれば良いこと。休みだってたんまりあるのだから。早く起きる必要もなく遅く寝て焦らなくても良い。ただただのんびり出来る。僕が好きなのはだらだらしてそのまま寝てしまうこと。その日もそうやって気付けば寝ていた。一日、誰からも連絡はなかった。もちろん星野からも。
どうすれば良いのか考えなくてはならない。親友を傷付けてしまったということは良くない思い出を作ってしまったということだ。だったらそれを忘れられるくらい良い思い出を作るべきなんじゃないのか。そう考えた僕は星野に良い思い出を作ろう大作戦を始めることにした。
すぐさまそれを実行しようとああでもないこうでもないと考え、思い付いた僕は振り向く。
「今日泊まっても良い?」
「んー、良いよ」
漫画を読んでいた星野は顔も上げずに答えた。
「あのゲームやろうよ。星野持ってるよな?」
あのゲームとは二人でやろうと言って金を出し合って買ったまだ手付かずのRPGゲームのことだ。
「持ってる、持ってる。やろう」
星野の反応は良好だ。
「明日の朝までにクリアするのはどう? 面白そうじゃない?」
「めっちゃ良い」
僕たちは気分が高揚して固い握手を交わした。
それからすぐにゲームを始めて三時間は休憩なしで続けた。予報は外れ、雨は一滴も降らなかった。その後互いに夕飯を十五分、風呂を十分で済ませまたすぐにゲームに取り掛かった。またしても三時間は休憩なしで続けた。半分は進んだだろうか。
「ちょっと休憩」
言い出したのは星野だ。でも正直、僕も休憩が必要だと思っていた。
二人でだらだらと喋りながらスナック菓子にジュース、最後にアイスまで食べた。スマホを見るとどうしてかわからないがもう午後十一時になっていた。僕たちは急いでコントローラーを握った。午前三時までは集中出来ていたと思う。トイレ休憩に順番に行ってゲームを再開しようとコントローラーを持った瞬間眠気に襲われる。星野も同じようで何度も瞼が落ちていた。二人して精彩を欠くプレイの連続で思うように進まずそれでも朝までにクリアするという目標の為に無理矢理に目をこじ開けた。そして午前六時、僕たちの戦いは終わった。抱き合って喜んだのも束の間、崩れるようにして僕たちは眠った。
八月三日午前九時、僕はまだ満足していない。もちろんそれは星野に良い思い出を作ろう大作戦のことだ。その人にとって必要なことをするのも思い出になるだろうと考えた僕はたんまりと夏休みの宿題を持って星野の家にやって来た。一緒にいると遊んでばかりいるけれど普段の星野からしてきっと宿題を最初にやってしまいたいタイプだ。だったらだらだらせずに一緒に宿題をやろうという訳だ。
「宿題やろうぜ!」
僕は意気込んで部屋に入るなり机の上に宿題と筆記用具を出した。
「珍しいこと言うね」
星野はあまり乗り気ではないように見えた。
「二人でやったら楽しいかも……」
失敗したかもと僕の声は小さくなる。
「早く終わるかもの間違いじゃない?」
星野はやったろうじゃん、という顔をしている。やっぱり僕は間違っていなかった。星野は早急に宿題を終わらせたかったのだ。
僕たちはまず二人とも一緒の教科をやるべきか別々の教科をやるべきか考えた。早く終わらせることが目的である。二人で出した答えはそれぞれ別々の教科をやるということだった。宿題を半分ずつやって、あとは相手がやった分を写せば良いのだ。より早く終わらせる為に互いに得意教科を選んだ。星野は数学のワーク集、物理化学生物のプリント。僕は英語のプリント、地理のプリント、現国と古典の問題集。もちろんわからないことがあれば聞き合う。小説の読書感想文もあったがこれは写すとまずいので各々でやることになった。星野は数学のワーク集から、僕は現国の問題集から始めることにした。星野は最初から集中して問題を解いている。僕は顔が痒いのが気になっている。三十分後、星野はまだ集中を切らしていない。僕は外を走る救急車の音が気になっている。星野が五ページ目を終える頃、僕はようやく最初の問題を読み始めた。現国というものは問題を作った人物がどう答えて欲しいのかを考えれば簡単に解ける。だからやり始めればスラスラと筆は進み星野よりも早く終わってしまった。この調子で行こうと僕は古典の問題集に取り掛かる。古典も現国とさほどやり方は変わらないが面倒なのは文章が読み辛いことだ。それでも文章さえ読めればこっちのもので、現国よりは時間が掛かったが割とスムーズに問題集を終わらせることが出来た。その頃、星野も数学の問題集を終わらせていた。区切りが良いので昼休憩にして近くのファストフード店に入る。キンキンに冷えた店内、ハンバーガー、ポテト、シェイク、時折五月蝿い人々の声。
「なあ、俺、生物で挫折しそう」
「じゃあ一緒にやる」
「平野はないの?」
「どこで挫折するかがわかんない」
「そん時が来たら一緒にやろ」
「うん」
そんな会話をしながら昼を済ませ店を出る。天国から地獄へ落ちたような暑さだ。
部屋に戻ると星野はまたすぐに宿題を始め、僕は自分の指の関節の形が気になった。同じことを繰り返さなければ僕は宿題を始めることが出来ない。僕は自分の目から自分の鼻がどんなふうに見えるのか気になってから英語のプリントに手を付けた。互いに挫折を味わい、助け合い、終わったのは共に午後四時を過ぎた頃だった。星野はこれで終わりだが僕にはまだ地理のプリントが残っている。僕は一人で始めたけれど星野も問題を解き始めた。地理は国名と都市名を答える宿題だ。わからなければ互いか、或いはスマホを頼れば良い。どの宿題よりも早く終わった。あとは相手がやった宿題を写すだけ。午後八時、全てをやり遂げて床に倒れた僕たちは暗い空を見て腹を鳴らす。頭を使うと腹が減る。何でも好きなものを食べても良いという褒美を自分たちに与え、僕たちはファミレスへ急ぐ。まだ暑い外の気温。もっともっと良い思い出を作ろうと僕は清々しく思っていた。
八月五日午前八時、僕は星野の部屋にいる。絶対に面白いからと星野に勧められていたが断り続けていたファンタジー超大作映画五部作を一緒にぶっ続けで見る為だ。普段は海外のB級ゾンビ映画しか見ない僕はこういう映画に疎い。僕がいつも見ているのはアメリカやイギリスの小さな町が舞台だというのにこれはどうだ。規模が壮大過ぎる。魔法の道具とか呪文とか地名とか魔法使いの名前、それに加えて別名まであって、そのどれもがふわふわしていて覚えられない。ゾンビをチェーンソーで切り刻む騒音がしないから寝てしまいそうになる。星野をちらりと見る。既に数十回目らしいのに食い入るように画面を見ている。僕はこんなんじゃ駄目だと自分の太腿をつねる。この世界に入るのだ。
「おおっ」
「うわっ」
「マジか……」
「すげえ」
僕は映画の邪魔にならないように小さく声を上げた。
「面白かっただろ?」
昼を挟んで五部まで見終わると星野がキラキラした瞳で僕を見つめる。
「うん!」
僕はキラキラした瞳が出来ていただろうか。決してげっそりなんてしていない。
星野は嬉しそうに映画の細部について語っている。僕は良くわからないながら相槌を打つ。これで良かったのだ。でもきっとまだ足りない。僕はまだ星野に良い思い出を作るつもりだ。
八月六日午後六時、僕たちは町の夏祭りに出掛けた。人混みは好きじゃないけれど夏祭りは許せる。雰囲気が好きなせいだろう。僕たちは食べるよりまず遊ぼうと最初に射的をすることにした。今まで射的で何かに当てたことも落としたこともないというのに今日は出来そうな気がした。星野はなんとも思っていない様子で銃を構える。チョコ菓子と小さなゴム人形。両方とも落としたのは星野だった。僕の自信は度々湧き上がるけれど湧き上がるだけで終わる。けれど次に選んだ型抜きでは僕だけが成功した。僕だけが十回もやったからだ。星野はそんな僕にああしたら良いんじゃないかとかこうしたら良いんじゃないかとかアドバイスをくれていた。それから僕たちはヨーヨー釣りをしてスーパーボールすくいをしておめんを買った。僕がひょっとこで星野が天狗だ。子供っぽいけれどそれが楽しかった。喉が渇いていた僕たちは冷えたラムネを飲んで、たこ焼きに焼きそばを食べた。どうして夏祭りで食べるものはいつもよりおいしいのか死ぬまできっとわからない。デザートも必要だと思った僕はかき氷を食べようと星野に提案した。星野は首を横に振る。りんご飴が食べたいらしい。花火が始まり、神社に続く石の階段に座りながらかき氷とりんご飴を頬張った。午後八時を過ぎると灯りのない墓場で肝試し大会が始まった。怖がりな僕はそういったものは避けて生きてきたが星野は絶対にやると言って聞かない。これは星野に良い思い出を作ろう大作戦だ。やるっきゃない。僕は幽霊をゾンビだと思うことにした。前にいたカップルがスタートして十分、僕たちは歩き始めた。なんで夜の墓場はこんなにも怖いのか鼓動は既に速い。墓と墓の間にふと目をやる。地面を這う白い服の女がいる。
「ギャーーーッ!」
俺は叫び、思わず星野に抱き付く。
「古典的だけど良いよね」
星野は冷静に僕を引き摺って歩いた。
暫く行くと星野がピタリと歩くのを止めた。
「なになになに」
僕はぎゅっと目を瞑る。
「なんか聞こえない?」
静まり返った墓場で聞こえてきたのはすすり泣く子供の声だった。
「ワーーーッ!」
僕は耐え切れずに走り出した。恐怖で息が上がるのが早い。ゼエゼエしながら立ち止まった僕の頬にヒヤリと何かが触れる。
「ひっ」
叫ぼうとした僕の肩を誰かが叩く。
「おい、大丈夫か? ただの仕掛けのこんにゃくだよ」
僕には星野が言っている意味が理解出来なかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい! バンジージャンプの約束すっぽかしてごめんなさい!」
僕は気付けば星野に謝りながらまたしても星野に抱き付いていた。今度は泣いていた。
「えっ……あー、それ俺も忘れてたわ」
星野の言葉に僕は脱力しその場にへたり込む。
星野に良い思い出を作ろう大作戦とはなんだったのか。考えるまでもない。必要なかったのだ。
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