一緒に痛み、向き合い

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一緒に痛み、向き合い

 邸の朝は少し慌ただしい。私が過ごしている場所まで騒々しさが聞こえてくることはないが、すれ違う従者は皆テキパキと動いている。  私が通り過ぎたあと足早に離れていった従者を見ながら、いったい何時に起きているのだろうと思った。 「松葉様、いかがされましたか?」 「あ、いえ……」  私を案内していた女性の従者は、歩みをやめたことを不思議そうにする。たいしたことではなかったから、誤魔化すように微笑んだ。 「皆さん早くからこんなに動けて凄いですね。私も以前奉公していたことがあったのですが、皆さんほど朝早かったわけではないので、感心してしまって」 「そうでしたか……それは初耳でございます」  日本で生きていた時は、どこにでもいるような会社員だった。たしか八時頃に出社していたと思う。それでも毎朝起きるのが辛かったというのに、この邸ではいったい何時から人が動いているのだろう。 「松葉様に関心を向けていただけて、光栄にございます」 「いえ、そんな……」  ふっと笑った女性は少し親しみをのぞかせる。こういった反応は蘇芳様の邸ではなかったことで、何故か緊張で手を握った。 「私共は早くからの仕事が染み付いておりますし、竜胆様のためでしたら辛くもございません」 「……竜胆様は皆さんに慕われているのですね」 「えぇ。もちろん松葉様も同じでございます」 「え、私ですか? でも、私は……」 「松葉様がいらっしゃってから、このお邸はさらに暖かくなりました。私共は皆、松葉様のこともお慕いしているのですよ」 「……それは、なんというか……とても、嬉しいです」  まさかこんなことを言われるなんて。もちろん初めから慕ってくれていただなんて思わない。突然他の地からやってきた男に戸惑ったはずだ。尊敬している領主の伴侶として来た者が蘇芳様の元伴侶であるから、なおさら。   「しかしみなの気持ちを合わせても、竜胆様には敵いません。あの方は松葉様のことしか見えておられぬようですから」  そんなことはないだろうと思い口を開く。けれど私が否定するより早く、女性は廊下の端によった。下げられた頭の奥、こちらに近づいてくる人物を捉える。  その瞬間、自分でも呆れるほど頬が緩んだ。 「おぉ、松葉、よいところに」 「竜胆様」  朗らかな笑顔に私も笑みを返す。竜胆は私の傍で足を止めた。以前よりも近い距離に嬉しいような気恥しいような気持ちになる。 「後ほど邸から出るが、共にどうだ?」 「私もですか……?」 「あぁ、案内したい所がたくさんあるのだ」  邸や敷地は自由に歩いていたが、その外に出たことはない。突然の提案に、私の思考は一瞬止まった。 「松葉の気がすすまぬのなら無理強いはせぬ……」 「あ、いえ……ご一緒したいです」 「そうか! では後ほど部屋に迎えに行こう」 「はい。楽しみにしております」  窺うようだった竜胆の顔は、私の答えを聞くとパッと明るくなる。竜胆との外出を私も楽しみだと素直に思った。  用事は済んだだろう竜胆は、おもむろに腕を持ち上げる。大きな手は優しく私の頬を撫でた。竜胆の体温、愛おしげな目にいっきに顔に熱が集まる。従者の前での触れ合いは初めてで、照れで少し俯いた。 「あ、あの、竜胆様……」 「! すまぬ!」  私の視線で従者に気づいたらしい竜胆は、急いで手を引っ込める。私と同じようにみるみるうちに顔が赤くなった。  さっき聞いた「松葉様のことしか見えておられぬようですから」という従者の言葉が、頭の中で繰り返された。  透き通った水の中に影が見える。自由に泳ぐ魚は陽の光を反射して眩しく光った。 「竜胆様!」 「ん? おぉ、おぬしか。元気であったか?」  川辺を歩いていた私たちの後ろで声が聞こえる。元気に走りよってくる青年は竜胆に向けて手を振っている。しかし私を見ると青年は少し離れたところで足を止めた。私に目を向けた途端、すっと表情がなくなる。 「紹介しよう。儂の伴侶の松葉だ」 「隣のとこから来たお方……」  あまりに冷たい目に声が出なかった。無意識に拳を握る。なんて甘かったのだろうと自分に呆れた。  邸で大切にされ、この地に受け入れられた気になってしまった。しかし私は蘇芳様のもとから来たよそ者。こちらに迷惑をかけ、犯罪行為を放置している領主の元伴侶。この反応こそ、正しいものだ。  体が硬くなり動けない私に代わって、竜胆がすっと前に出た。 「……おぬしの不安は当然のこと。しかし松葉は儂の伴侶であり、儂は松葉の伴侶だ。どうか信用してはもらえぬか」  胸を張り堂々と立つ竜胆。私の痛みに、私と一緒に向き合ってくれる背中は大きくて、目頭が熱くなった。 「あ……申し訳ありません。おふたりを責める気なんか……」 「あぁ、わかっておる」  バツが悪そうに視線を落とした青年。竜胆が言ったように、青年の反応は自然なものだ。すべてわかっていると微笑みながら、竜胆は青年の肩に手を置いた。
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