苦しいほど

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苦しいほど

「はぁ、はぁっ」  どれぐらい走っただろう。もう足の感覚がない。しかし、いつからか後から物音がしなくなっていた。それだけでも体の動きは違う。もう少し、もう少しと自分を奮い立たせながら、どうにか足を動かし続けていた。  木々が途切れている場所に出る手前、竜胆は足を止める。ずっと走っていたから平衡感覚があやふやになり、ただ立つことも難しくなっていた。 「ようやく着いたようだ……あれが用意した家だ」  夜が明ける白んだ空の下、ぽつんと民家が建っている。その先には細く昇っていく煙も見えた。少し離れたところに村があるのだろう。  必死に目指してきた場所の目の前まで辿り着けた。ふたりとも大きな怪我もしていない。安心で気を緩めそうになった私とは反対に、竜胆は硬い声を出した。 「この家が無事だという証はない。少し待っていてくれるか」 「……、っ、げほっ」  安全かどうかを確かめに行くのだろう竜胆に、それなら私も一緒に行くと言いたかった。けれど言いかけた瞬間、声も出せないほどむせてしまう。とっくに限界を迎えている体では声を出すのも難しかった。  私が何を言いたいのか察した竜胆は、すまん、と一言残し家へ向かって行った。咳が苦しくて涙目になりながら、どうか無事で戻ってきてくれることを祈る。  竜胆が家のそばに着く。静かに潜みながら中へ入っていった。物騒な音や声が聞こえないかという恐怖で、手のひらを握りしめる。胃が締め付けられた。  辺りは静まり返っていて、何も音は聞こえない。しばらく木の影から様子を窺っていると、戸から人影が出てきた。それが竜胆であることを強く願う。  動く人影はこちらに近づいてくる。痛いくらいに心臓を鳴らす私に向かって手を上げた。 「松葉、もう安心して良い……ここが儂らの家だ」  待ち望んでいた声と言葉を聞いた瞬間、膝が地面についていた。いっきに溢れ出した涙を流す私に、慌てて竜胆は駆け寄ってくる。 「松葉!」 「ぅっ、……りんどう、さまっ」 「あぁ、そうだな……お互い無事なのが何よりだ。しかし夜が開ける前に家へ入ろう。すまぬが触るぞ」  座り込んでいた私を軽々と抱きかかえた竜胆。一度後ろを振り返ってから、家へと足を進めた。竜胆だって安心しただろうに、私がこんな状態では気を緩められないだろう。逞しい腕の中で揺れながら、濡れた頬と目元を拭った。 「布団に横になるか?」 「いえ、汚してしまうので、ここで……ありがとうございます」  家の隅には布団が畳まれていた。替えがないから汚すことはできず、板の床へ降ろしてもらう。まだ体に力が入らないため、竜胆の手に促されるまま体を倒した。硬い木の床だが、やっと横になれた体は楽になる。  外観から想像したとおり、中はいたって普通の民家だった。この日のために用意してくれたのだろう、必要最低限な物は揃っており、家も手入れがされていて清潔だ。  安堵の息を吐いた私の隣へ、竜胆もごろりと寝転んだ。ふたりでしばらく、呼吸だけをする。 「……竜胆様には感謝してもしきれません。すべてを捨て私と生きることを選んでくださり、ここまで連れてきてくださり、ありがとうございます。暮らしに必要な物まで用意していただき……」 「儂はただ、自分がしたいようにしただけだ。それに捨てたとは思っておらぬ。松葉と共に新たな暮らしを得ただけのこと」 「……竜胆様と生きられて、私は真に幸せでございます」 「儂も同じだ。おぬしと日々を重ねていけることが何よりの幸せだ」  顔を横に向け、お互いを見る私たち。見つめ合うこの空間が、まさに幸福だった。受け止めきれないほどの想いに胸が苦しくなり、たまらず隣に手を伸ばす。着物を掴んだ私に竜胆も体を寄せてきた。  見つめ合ったまま、引き寄せられるかのように近づく顔。このまま竜胆と口付けをしたい。竜胆の存在をそばに感じたい。しかし私は強い欲求に蓋をして、ある懸念から瞳を伏せた。 「……竜胆様のもとを去ってから、私は再び、蘇芳様と関係を持ちました。そのような私に触れること、嫌ではありませんか」 「………」  沈黙が痛い。嫌われたら、傷つけたらという不安から伝えるのを躊躇っていた事実。しかしずっと罪悪感を抱えて暮らすのはお互いにとって辛いことだろう。胸のしこりを解消するため、竜胆の答えを待つ。 「儂はおぬしの強さに惹かれたと言ったであろう。不自由な立場で抗った証だ。そのような辛いことに耐え儂を待っていてくれたこと、感謝しておる」 「っ……!」  竜胆の底知れない優しさや器を垣間見た時、私の胸は打ち震える。果てしなく大きな愛に包まれている気がした。目頭、喉、胸が熱くなり、その熱は身体中に広がっていく。 「竜胆様に、触れたい」 「松葉……」  きっとふたりとも、眉を下げ今にも泣きそうな顔をしている。少しの切なさと、大きな喜びを抱えまた顔を近づかせていった。  もう私を、私たちを縛るものは何も無いのだと思いながら、唇を触れ合わせる。離したくない、離れたくないと言わんばかりにふたりともお互いの体を抱きしめた。体中痛いのに心地良さと幸せが勝る。  この家には私と竜胆のふたりだけ。従者や親しい者はいないが、私たちに何かを望む者もいない。  これからはここで、愛しい人と愛しい日々を重ねていける。
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