いつの間にか、こんなにも

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いつの間にか、こんなにも

 見つけた背中に微かに胸が音をたてる。品の良い着物を纏い姿勢よく立つ背は、いつの間にか見慣れてきているものだ。  竜胆様と呼びかけてみようか。私が名を呼んだら、いつものように笑顔で振り返ってもらえるだろうか。  躊躇した後、声を出すために息を吸い込んだが、私はすぐに体を硬直させた。存在を消すように息をひそめる。 「あれは……」  邸の中庭に竜胆が立っている。そして、その背の向こうに艶やかな黒髪が見えた。  上等な鮮やかな着物を着た女性が、竜胆のそばに立っている。少し離れたここからでも女性が美しいことはわかった。  ふたりは和やかに歓談している。向かい合う距離、楽しげな表情で親しい間柄であると伝わってくる。 「あぁ、そうか……」  微笑み合うふたりを見て、あることが腑に落ちた。竜胆が私に触れないのは、触れたいとも思わないからだ。夜を共にしないのは、他に相手がいるからだ。私ではない誰かを選んでいただけの事。  何故こんなに簡単なことに気づかなかったのだろう。私はただ人質としてここに居るだけで、初めから役割などなかったのだ。 「そんなことにも気づかずに、笑っていたなんて」  握りしめた拳のなか、食い込む爪が痛みを生む。体から力が抜け、喉が熱くなる。  以前であればそれを知ってもどうということはなかっただろう。けれど今では、はっきりと悲しみ、怒りが込み上げてくる。  悲しい、苦しい、寂しい。今まで持つことも許されず、ずっと抑え込んでいた感情が足元から這い上がってくる。 「ん、そこにいるのは松葉か?」 「っ」  耳に入った自分の名前に意識を引き戻す。急いで微笑みを貼り付けた私のもとへ、竜胆が近づいてきた。いつの間にか女性の姿はなくなっている。 「そんなところに立って、どうした?」 「いえ、なんでもありません、竜胆様」  暗い感情をしまい込み、竜胆を見る。顔が強ばっていないことを祈った。  そうだ、あんな感情、私には必要のないものだ。それを捨てる訓練を幼い頃からしてきたじゃないか。 「なんでもないことはないだろう……そんなに辛そうな顔をして」 「え」  辛そうな顔。そんな顔をしているのか。上手く笑えていると思っていたのに、何故こうも竜胆は見破ってしまうのだろう。  今はその優しさから逃げたかったが、真剣にこちらを見る竜胆に背を向けることはできなかった。 「何かあったなら言ってほしい。松葉の力になりたいのだ。……儂には言いたくないか?」 「っ」 「……おぬしから故郷を奪った儂には、このようなことを言う資格などないか」  落ち込む竜胆を見たのは初めてだった。真っ直ぐだった視線が伏せられ、眉が下がる。項垂れる竜胆にこちらも戸惑った。寂しそうな瞳の中に私への心配が含まれているのもわかり、胸が苦しくなる。  どうしてこんなに真っ直ぐなのだろう。隠し事ばかりの私に、竜胆は何故こんなにも寄り添ってくれるのだろう。  答えはわからない。しかし、私も少しくらい竜胆と向き合ってみようと思った。 「先程、竜胆様とご一緒だった女性は……」  大切な人、心を通わせている相手。どう言おうか口ごもっているうちに、竜胆が口を開く。 「あぁ、先程の婦人か? 松葉もここにいたのなら紹介すればよかったな。幼き頃より世話になっている家の娘でな。久方ぶりに会ったのだが、家族に早く会いたいからとすぐに帰ったよ。親が決めた結婚だったが睦まじくてな……あぁ、すまない。あの婦人がどうかしたのか」  そこまで話すと竜胆は表情を真剣なものに戻した。私の答えを待つように、口を閉じる。  竜胆の言葉を聞いた私の顔には少しずつ熱が集まってきていた。これまでここで過ごしてきて、竜胆が嘘をつくとも考えられない。とすれば、すべてが私の勘違いということになる。  勝手に想像して勝手に傷つくなんて、どれほど私は身勝手なのだろう。いつのまにか私は竜胆のこととなると、こんなにも感情が揺れるようになっていたらしい。
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