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希望の代償
「あなたの希望通り、今日の料理は腕によりをかけたから絶対に食べて欲しいの」
そんな誘いに、僕は何とか仕事を切り上げ彼女のマンションへと駆け付けた。
彼女は元々料理上手だが、今回は余程の自信作なのだろう。僕の背を押し「早く早く」とリビングへ急かされた。
「お口に合うといいんだけど」
目の前に出されたのは、一見何の変哲もないビーフシチューだ。
ぱくりと一匙を口の中に頬張ると、程よく煮込まれた肉が舌の上でほろほろとほどける。
確かに僕の希望通りだ、これは美味い。一皿目をぺろりと平らげ、おかわりを催促した。
「気に入ってくれて良かった。でも奥さんの手料理には負けるよね」
「……え?」
唐突な一言に、持っていたスプーンを思わず床へと落としてしまう。
彼女はスプーンを拾い上げ、新しい物を手渡してくれた。
「自分が不倫してたなんてショック。まさか奥さんがいるなんて」
「わ、悪かった……その、妻とはあまり上手くいっていなくて」
綺麗にネイルの施された指先をつんと頬に添えながら、彼女は愛らしく小首を傾げる。
「そう? 可愛いお子さんもいて、端から見たらとっても素敵なご家族だし、そんな風には見えなかったけど。それよりほら、スプーンが止まっちゃってるよ? ちゃんと味わって食べて」
無理だ。不安の波に攫われ、僕の食欲は一気に減退した。
好きだった彼女の笑顔にも、今はもう不気味さしか感じられない。やたらと料理を勧めてくる、この違和感たるや如何に。
まさか……とある恐ろしい考えに至った瞬間、僕は激しい吐き気に襲われた。
「やだ、せっかく作ったのに吐き出しちゃうなんて。もしかして奥さんの肉が入っているとでも思った?」
「ち、違うのか?」
「馬鹿ねぇ、私がそんな事する筈ないじゃない」
安堵の言葉に、僕はほっと胸を撫で下ろす。
「そ、そうか……そうだよな」
その時、僕の携帯の着信音が鳴った。
妻からだ。
『もしもし。ねえ、あの子が帰ってこないんだけど……』
了
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