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確かに見た 夏side
何か嫌な事でもあったんだろうか。
激しく求められた。
笹野さんのたくましい腕に抱き寄せられると、一気に体の力がぬけて脳内の何かが溶けてしまうほど熱くなる。
そのせいで、悩みがあるのか、何か困った事でもあったのか、聞く余裕がない。話をする時間が惜しいくらい求めあって、その快楽に溺れてしまう。
自分がおかしくなっているのがわかる。
それはどんどん酷くなって、大学で勉強していても、アルバイトしていても、空きがあれば一日中彼のことを考えてしまう。
一緒にいる時は必ず抱き合っている。
食事をしたり入浴をする時間よりも、彼が中に入っている時間の方が長く感じるほど。
セフレというのはそういうものだろう。会えば身体を重ねる。事が終われば自分のいつもの生活に戻っていく。それが正解の形なのだろう。
呼吸に合わせ上下する彼の胸の動きを背中で感じながら夏は声を殺して泣いた。
朝が来て、太陽が真上に来る頃に、彼は行ってしまう。自分の居るべき所へ帰っていくのだ。それはきっと大切な人が待つ暖かい場所なんだろう。
ワンルームの小さなベッドは二人で眠るには狭すぎる。彼の足は必ず出てるし、くっついていないと、どちらかが下に落ちてしまう。
狭いスペースで、男性だと伸びをする事すらできない。どこかに肩や頭をぶつけてしまう。いつも小さくなって生活しなければならない。
ミニキッチンはちゃんとした料理を作るには小さすぎだし、ユニットバスは湯船に浸かる事すらしんどい。くつろげる場所なんてこの部屋にはない。
やることをやったら帰りたくなるのは当然だろう。
笹野さんと体を重ねる事で心がこんなに乱されるとは思っていなかった。
そもそも、私は彼の何を知っているんだろう。
詳しい住所も知らない。一軒家に住んでいるのかマンションなのか、大学はどこを出たのか、仕事で何をしているのか。友達は?好きなスポーツは?
聞けば答えてくれるだろう簡単な事を、聞けない理由はただひとつ。
彼に奥さんがいると思うからだ。
そして笹野さんが初めてお店に来たあの日、彼は左手の薬指にプラチナの指輪をしていた。夏は確かに見た。あれは結婚指輪だった。
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