1人が本棚に入れています
本棚に追加
本編
「おっと」
とある夏の夜、何気なく外を散歩していると、地面に何かが転がっていたため慌ててそれを避けた。何かと思い見るとそれは、息絶えて逆さまになっている一匹のセミだった。
今ではしかめ面になるくらいの反応を見せる私だが、子供のころはなぜだか死んだセミを集めるというにわかに信じがたい趣味があった、らしい。らしいというのは信じたくないからという理由に加えて、もうずいぶん前のことになり、うろ覚えになっているからなのだが、このような趣味をきっぱりとやめたきっかけとなった出来事は何となく覚えている。そう、その日もこんなじめじめとした夏の夜だった。
当時私はそれが楽しかったからやっていた、のだろう。だが周りの人からすればそれはとんでもないことで、今更家族などに申し訳ないような気分になる。それでも4歳の頃の幼い私は、特に母に怒られないようにこっそりと、その趣味にひっそりと明け暮れていた。だが部屋も同じで、生活も一番距離的に近かった当時小学3年生の姉はいくらひっそりとやっていることでも、とんでもないと思って止まなかったに違いない。そもそも姉は虫嫌いだ。当時の私は相当無神経で自己中心的だったのだと回顧する。そんな私に対し姉はもちろん、死んだセミを集める趣味をやめるように何度も訴えてきた。そして私は姉の配慮のつもりで姉に見えない程度に工夫して続けていく。だが姉の願いは私にその趣味をきっぱりとやめさせることだった。頑固者でもあった私に対しどういう風に言えば趣味をやめさせられるか、姉は真剣に考えたのだろう。そしてとある日、何気ない会話の中でさりげなく姉は私にこういう風に言った。
死んで地面に転がっているセミは景観を損ねるため、夜にひっそりと回収するという仕事がある。あんたはそれする人の仕事を奪ってんだよ。
大体こんな感じの事を多分にやにやしながら言っていた。もちろん景観を損ねるなんて言葉は当時の姉は用いなかったが、多分こういう類のことを言っていたと思う。そして私は、仕事という言葉がすごく印象に残ったのを覚えている。そして予想できることでつい笑ってしまうが、当時の私は姉にこう返した。
「じゃあ私、その仕事に就きたい」
それが姉の策略だったのだろう。姉は私にこう言った。
「あんたじゃ、できないね」
なんでとか、こんなに集めてんのにとか、私はムキになって姉に問いただした。すると姉はこう返した。
「あんたは持つべき心がない、セミに対してどう思っているのか、その仕事をしてる人はすごく考えているよ。あんたは足りないものがある」
「えー何?」
「それは、自分で考えなさい、それと、その心もないし、雇われてもいないなら絶対、セミをとるのはダメなの。会社の人が怒ってあんたを捕まえに来るよ」
当時純粋な私は全て姉の言ったことを信じた。もちろん今はばかばかしいと思う。でも姉のどこか現実的な言い方で私はそれが本当の事であると見事に錯覚していた。そしてその後、怒られるのはやだなーとか思いながら素直に死んだセミをあきらめていた期間が続いた。その頃の私の思考としては、会社に入らないととっちゃいけないのかぁ、じゃあ入ればとっていいんだよね、でもお姉ちゃんは私には足りないことがあると言った、それは何だろう、それがわからないと会社には入れないなぁ、なんてことだ。そして真剣に私のセミに対する思いを考えたが、いくら考えても足りないものは何かわからなかった。どうすればいいのか、自分で考えなければいけない、でもヒントは欲しい。姉は教えてくれない。母には伝えたくない。そう追い詰められた私が考えたのが、
実際仕事をしている人からヒントを聞こう、というものだった。仕事をする人は夜にひっそりとセミを回収するということから、私はたびたび夜にそういう人がいないか探しに行った。何度もだ。もちろん、一人で幼い子を出かけさせる親はいない。だから私は、父に本当にしたいことを言わずに、ただ夜公園に遊びに出たいと言って連れて行ってもらっていた。その公園は木が周りを囲んでいるだけで、トイレも何もない公園だった。だがその木々には日中耳を塞ぎたくなるほど多くのセミが鳴いていた。必然的に死んだセミも多く、収集していた時のほとんどはこの公園で見つけたセミだった。だから仕事をする人もこの公園を見逃すはずがない。そう見当をつけて私はたびたび父と公園へ夜に遊びに行った。公園はたまに犬の散歩をする女性などが通るものの、ほとんど人はいないようなさびしいところだった。だが結構な広さで、私と父はキャッチボールなどをして遊んだ。何も知らない父はもちろん私の事だけしか見ていなかっただろうが、私は父とキャッチボールをする中で木々の方にも目を向けていた。誰か何かすくうような仕草をする人はいないかじっと目を凝らして、いないとわかってももうすぐ来るかもしれないなどと思いながら、キャッチボールの合間でよそ見をしながら仕事をする人が来るのを待った。
だが、結論を言えば、当たり前だが来なかった。そして来るとしたら、私のような変人だろう。私は何回か公園に来るにつれて次第に諦めモードに入っていった。キャッチボールという目立つ行動をしているから遠慮して来ないのではと思ったりもしたが、もっと夜遅くにここに来ているんだと結論づけてしまい、もちろんそんな時間まで公園にはいさせてくれないのはわかっていたから、私は私の作戦は失敗したと考えるようになっていった。
だが、もう公園に来るのはやめようと思った頃のことだった。私は知らないうちに腕の力が強くなってるのを感じていたが、それでも気分は相当落ち込んでいた。結局父に連れていかれる形で公園に来た私だったが、キャッチボールをやる気には到底なれなかった。そんな私に対し父はキャッチボールをいったんやめて、少し公園の中を歩こうと提案した。下を向きながら私は父とゆっくり歩いていると、足元に何か転がっているのが見えた。それは死んだセミで、私は思わず拾いそうになったが、その前に父が言った。
……あれ、何言ったんだっけ?ずいぶん前の事だから、覚えていないのも無理はないのだが、父は私に対し何か言った。それを聞いた私は確か驚いて、その後きっぱり死んだセミを収集するのをやめた。父は私に何を言ったのだろう。
まあ、どうでもいいだろう。父は私に対しすごく優しくて、いつも私のわがままを聞いてくれた。そしていろいろなことを知っていて、特に昆虫のことに関してはとても博識だった。その時も多分、私に対しその知識を披露したのだと思う。私の知らない、セミの秘密とか。そうであれば、私が覚えていないのはなんだかもどかしい。だが帰って聞くのもばからしいし、そんなこと思い出すのも半分どうでもいいという気持ちだった。
生暖かい風が吹いていた。夜だと言うのに汗が多く吹き出てくる。ちょうどベンチがありそこに座り水分補給する。なんとなく周りを見渡すと、道を挟んで向こう側にある自販機のそのすぐ横の茂み、そこに誰か人がいるのが見えた。こちらに背を向けてかがみ何やらやっている。普通に考えれば不審な人物だ。だが着ている服が父に似ていることもあってか、私は何やら気になり、ゆっくりと前へ進む。何をやっているのか、遠目で確認したかった。なんてことない動作を装いつつも、他人を隠れて観察するのは悪いことやっているようでドキドキする。夜だと言うのに、セミの声がうるさい。
セミと言えば、姉はふざけてだろうが、真剣な顔をしながら私にこうも言っていた。
その会社が死んだセミを集めるのはね、景観のためだけじゃないよ。
姉はそのあと何を言ったのか、それも忘れてしまったが、確かすごく怖いと思うようなことだったと思う。姉としては、その会社を怖いものだと思わせて、私をセミ自体から遠ざけたかったのだと思う。今までそのことはすっかり忘れていた。
だが姉は何を言ったのか、それは思い出すことができた。今、目の前に広がっている光景が、それと同じものだと気づいたから。
最初のコメントを投稿しよう!